人を傷つけてはいけない

 「友達や家族を傷つけてはいけません」この言葉は全く正しい忠告です。ですが、全く正しい忠告は時に生きていくための実用には耐えられないことがあります。なぜなら誰かからこういう忠告が口をついて出てくるような状況はたいてい、いけないのはわかっていても、そういう状況になってしまう、という場合が多いからです。「なってしまう」というのは、忠告で何とかなる範囲を超えています。忠告で何とかなる程度なら、そもそも誰かを傷つけるような状況にはならないと言い換えても差し支えありません。

 「ヤマアラシのジレンマ」というお話を聞いたことはあるでしょうか。ドイツの哲学者、ショーペンハウアーが著書の中で紹介した寓話です。

ヤマアラシの一群が、冷たい冬のある日、お互いの体温でこごえることを防ぐために、ぴったりくっつきあった。だが、まもなくお互いにトゲの痛いのが感じられて、また分かれた。温まる必要からまたよりそうと、第2のわざわいが繰り返されるのだった。こうして彼らは2つのわざわいのあいだに、あちらへ投げられこちらへ投げられしているうちに、ついに程々の間隔を置くことを工夫したのであって、これで一番うまくやっていけるようになったのである。

アルトゥール・ショーペンハウアー 1973 「ショーペンハウアー全集 14」 白水社

 友達と仲良くしたい、家族ともっと話がしたい。私たち人間も一人ぼっちではあまりにも心が寒く凍えてしまうので、誰かと関わりたい、そう思うのはとても自然なことです。でも、友達がひどいことを言ってきた、無視された、家族が適当にあしらった…そんな目にあってしまったら私たちは深く傷つきます。もう傷つけられるのは嫌だ!だからこっちも同じようにそっけない態度をとってやろう!私たちの心の棘が逆立ち始めます。グサッ。相手にも傷を負わせることに成功しました。やった!ほんの一瞬、私たちの心に爽快感が泡のように浮かび上がります。でもその後にやってくるのは、何とも言えないむなしさです。本当は仲良くしたかっただけなのに。もっと話がしたかっただけなのに。何をやってるんだろう…。

 人を傷つける状況に「なってしまう」というのは、多くの場合こんなふうに「なってしまう」のです。しかも、もともと相手は傷つけるつもりなどあまりないことも多く、ちょっと他のことに気を取られて雑に対応してしまっただけだったりします。このような場合、相手には傷つけた自覚がないので、相手側も一方的に突然傷つけられたという体験となってしまい、お互いの棘の刺し合いはさらにエスカレートするばかりです。

 もっと仲良くなりたい、もっともっとわかり合いたい。ヤマアラシの群れの、身を寄せて暖め合いたいという願いと同じく、私たちのこの願いも切実です。しかし、皮肉にもこの願いはすれ違い、傷つけ合い、時にはお互いボロボロになってしまうこともあります。かと言って、傷つきを避けて距離を取り過ぎてしまえば、孤独で凍えてしまいそうです。では、私たちはこの問題にどのように向き合い、どのように考え、どのように対処していったらよいのでしょうか。

(次回につづく)

畠山正文

コメント

  1. […] 前を読む 最初から読む […]

  2. […] 前を読む 最初から読む 次を読む […]

  3. […] 前を読む 最初から読む 次を読む […]

  4. […] 前を読む 最初から読む 次を読む […]

  5. […] 前を読む 最初から読む 次を読む […]

  6. […] 前を読む 最初から読む 次を読む […]

  7. […] 前を読む 最初から読む 次を読む […]

  8. […] 前を読む 最初から読む 次を読む […]

  9. […] 前を読む 最初から読む […]

タイトルとURLをコピーしました