個人的な欲求と社会側の欲求の違い

 前回の話をもう一度簡単に振り返りましょう。「傷つく」「傷つける」というのは「欲求」を交流させる中で生じるものだということ、そして「欲求」には二つの欲求、つまり「個人的な欲求」ともう一つ「社会側の欲求」とがあるということ、こういう話でした。

 ここで少し違和感を持たれた方がいるかもしれません。「欲求」に「個人的なもの」と「社会側のもの」との二つがあるという説明に対する違和感です。前回の例で言えば、「アイスクリームを食べたいな」という欲求と、「子どもは健康に育って欲しい」という欲求とが同じ「欲求」として並列されることにどこか奇妙な感覚を持たれる方はいらっしゃらないでしょうか。つまり、ごく個人的な欲求と、社会側の欲求とは、同じ「欲求」として並べられるようなものではなく、全く異なるものだというような前提で見ると、確かにその違和感や奇妙さはうなずけるところがあります。この違和感や奇妙さは重要です。

 なぜなら、「社会側の欲求」とここで呼んでいるようなものは、実は「正義」や「公共」、「規範」といったものと深く関連しているからです。例えば、「子どもは健康に育って欲しい」という欲求を誰もが共通して持っているという前提にもとづいて、私たちの社会は子どもが小さいうちから健康診断や予防接種を受けるという「公共」のシステムを提供しています。「犯罪のない社会になって欲しい」という欲求は、「正義」や「規範」に深く関わる刑法のシステムや警察のシステムを整えています。「社会側の欲求」は、「欲求」などという軽々しい言葉で表現できるようなものではなく、「正義」「公共」「規範」といったとても重厚なテーマと深く関わっているものだというわけです。

 しかも、例えば「信号無視をしてでも早く行きたい」というごく個人的な欲求は、しばしば「交通事故のない社会になって欲しい」という社会側の欲求と強く対立することがあります。私たちの社会の「正義」や「規範」はこれら二つの対立する「欲求」を同じレベルにあるものだとは決して見なしません。圧倒的に「交通事故のない社会になって欲しい」という「欲求」の方が、「信号無視をしてでも早く行きたい」という「欲求」よりも、ずっと優先されるものだと見なしているのです。つまり、「個人的な欲求」と「社会側の欲求」とは、圧倒的にその力に差があるという前提を私たちは無意識に受け入れています。先ほどの違和感や奇妙な感覚は、私たちが慣れ親しんでいるこの無意識の前提への刺激が生み出す感覚です。

 しかし、この違和感や奇妙さにもかかわらず、「ハラスメント」や「体罰」、「虐待」などの問題に見るように、「正義」「公共」「規範」の体現者と見なされるべき上司や教師や親の行動がただの「個人的な欲求」に成り下がるような場面や局面が増えているという現実も一方で散見されます。私たちがよく「わがまま」と表現するような「個人的な欲求」をうまくしつけるための根拠となるはずの「正義」「公共」「規範」が、ただの「社会側の欲求」や、場合によっては「個人的な欲求」に成り下がってしまっているわけです。なぜそんなことになってしまうのでしょうか。

(次回につづく)

畠山正文

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