言語化と体験化


 思春期の人の心の中では、子どもから大人へという変化の動きと、変化に伴う不安定な状態を「ふつう」を求めることで安定化させようとする(つまり変化に抵抗しようとする)心の動きとのせめぎ合いが繰り返し生じます。このせめぎ合いは、たいへんな苦痛を伴うものですから、さまざまな形でその苦痛から解放される方法が心の中で生まれます。

 苦痛から解放される方法には、大きく二つの方法があります。一つは、言語化、つまり言葉にするという方法です。もう一つは、体験化、つまりその繰り返しを何度も体験するという方法です。これら二つの方法は、わたしたちがよく目にしたり耳にしたりする方法であり、どちらもそれぞれ良い面と悪い面を持っています。

 一つ目の言語化について。例えば、小学生高学年になったときや中学校や高校に入学したときなど、先生や親から「あなたたちはもう大人になるんだから」と言われることがあります。この「大人」という言葉によって思春期の人たちの心を固定しようとする働きかけは、一つの言語化の役割です。言葉というものはそもそも、あいまいなものに切れ込みを入れて区別をはっきりさせる役割をもっています。「あなたたちはもう大人」という言葉によって、大人としての「ふつう」を思春期の人に対してはっきりと定義しようとしているのです。心の状態が言葉通りにすんなりはまれば良いですが、なかなかそううまくはいきません。「大人」という言葉からはみ出した「子どもっぽさ」が逆にあふれ出したりします。前回の河口の例で言えば「ここからはもう海!」と境界線を引いたところで、逆に川っぽさが際立ってきたりします。こうした境界線や定義をはっきりさせることで反作用のように生じる心の動きがあります。この反作用が「ふつうからの間違い探し」に他なりません。

 このはみ出し状態にさらに言葉が当てはめられる場合があります。それが「思春期」という言葉です。この時期を「思春期」と呼ぶのは、大人でも子どもでもないあいまいで微妙な時期であることを自他に宣言し、その時期の不安定さをある程度許容して苦痛から解放されるためです。これは言語化の良い面です。しかしこの「思春」という言葉は、恋心に注目した言葉なので、大人と子どもの狭間の不安定さを表現する言葉として最近では十分にフィットしないのかもしれません。そこで編み出された言葉の代表、それが「中二病」という言葉です。この「中二病」の「病」という言葉には、あいまいさや不安定さを病気と見なそうとする意志があります。また、「中二」という非常に限定的な時期に境界を引こうとする意志も現れています。この言葉が大きな流行を見せた2000年代以降、思春期特有のあいまいさや不安定さを「ふつう」とは異なる異常な状態と見なそうとすることに、多くの人がリアリティを感じたからこそ、これほど言葉が社会全体に定着してきたと言えそうです。そしてこの現象には、言語化という方法の悪い面が表れているように思います。

 

畠山正文


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