欲求と傷つきとの関係

 「傷つく」「傷つける」をめぐって、ここまでいろいろと考えてきました。「傷つく」、「傷つける」というと、とても大変なことが起こっているようですが、ここで少しシンプルに考えてみましょう。実は「~したい(したくない)」「~して欲しい(して欲しくない)」のやり取りの中で生じるのが、「傷つく」「傷つける」なのだ、と。以前にご紹介したヤマアラシのジレンマを思い出してみてください。ヤマアラシたちは、「暖まりたい」と「(相手の)棘に刺されたくない」との間のジレンマに苦しんでいたのでした(場合によっては、「相手に自分の棘を刺したくない」もあり得るでしょうか)。この「~したい(したくない)」「~して欲しい(して欲しくない)」という心情を熟語にすると、「欲求」ということになります。私たちは、「欲求」のやり取りを交わす中で、傷ついたり、傷つけられたりするわけです。

 前回、「いただきます」といった行儀と、生産から販売までのシステムとの違いについてお話しましたが、ここで「食べる」ということをめぐる行儀とシステムの違いを取りあげたのには、理由があります。「食べる」は、私たちの心の根っこの方にあるとても大切な「欲求」だからです。私たちが自然にもっている大切な「欲求」は、悲しいかな必ずや何かを傷つけてしまうのだ、この自覚を促しつつそこで生じる感情を忘れよう(修めよう)とするのが行儀でした。そして、「欲求」を正当化し、そこで本当は生じている傷つきにフタをして見ないようにし忘れようとするのがシステムです。

 「欲求」というと、とても個人的なことのように思われるかもしれません。「アイスクリームを食べたいな」「旅行で温泉に行きたい」「大好きなあの人とお付き合いしたいな」こうした欲求は、確かに個人的なことです。しかし、「欲求」はそういった個人的なことだけではありません。もう少し広く捉えると、実は社会的な欲求というものもあります。難しい表現で言うと、社会が何を求めるかということです。例えば、「子どもは健康に育って欲しい」「犯罪のない社会になって欲しい」「オリンピックで金メダルをたくさんとって欲しい」「感染症を心配することのない世の中になって欲しい」こういった社会的な欲求というものも、広く捉えれば「欲求」と言えます。

 この社会的な欲求の実現を目指しているのが、実は「システム」です。この社会に暮らすみんながある程度共通して持っている「欲求」を満たすために、「システム」というものが存在しています。食料の生産から販売までがきちんとした「システム」で動いているからこそ、私たちは毎日「食べる」という基本的な欲求を満たすことができるのです。10年前の東日本大震災の時や、昨年の新型コロナのパンデミックが起こり始めたばかりの時のことを思い返してみると、よくわかるでしょう。あの時、食料や衛生用品の流通、販売の「システム」が、一時的に正常に機能なくなってしまうということを私たちは経験しました。社会的な欲求を支える「システム」がうまくいかない時、社会は大きな「傷つき」を体験することになります。このような意味では、「システム」は確かに私たちの生活になくてはならない大切なものです。

(次回につづく)

畠山正文

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