決まりに根拠や理由なんてない

 ちょっとここで大胆なことを可能性として示しておきましょう。その可能性とは、「虐待」や「ハラスメント」、「体罰」といった親や上司、先生といった役割を担う人たちを苦しめている現代社会の動きは、これまでの「正義」や「規範」をただの「欲求」や「わがまま」に変えるための、私たちが暮らす今の社会の悲願なのだという可能性のことです。

 ここでどうやら私たちは、「正義」や「規範」というものについて、もう少し詳しく丁寧に考えておく必要がありそうです。「正義」や「規範」という言葉は、「〇〇は正しい」「××は間違っている」ということの決まりやルールのことを少し抽象的に(難しく)表現した言葉です。

 例えば私たちが日ごろ何気なく使っている「言葉」にも、決まりやルールがあることに気づきます。「あ」という文字を見て、“あ(a)”と発音するという決まりがあります。ところで、「「あ」という文字=“あ(a)”という発音」、これがこう決まっていることの理由や根拠をきちんと説明できる人がいるでしょうか?語源や文字の成り立ちをさかのぼったところで、なぜ「あ」を“あ(a)”と発音するかの理由にはなりません。語源や成り立ちは、「どのように」を説明するものではあっても、「なぜ」を説明はしません。

 はっきり申し上げましょう。決まりやルールというものは、本来その特徴からして本当の理由や根拠などそもそもありません。「正義」や「規範」といったものには本来、それがなぜ正しいのかという本当の理由や根拠などないのです。どんなにもっともらしい理由や説明を加えたとしても、究極的には「とにかくそう決まっているからそうなのだ」としか言えないのが、「正義」や「規範」というものだと言っても過言ではありません。「正義」や「規範」の本当の理由や根拠がないのだとしたら、「〇〇が(いつも常に誰にとっても)正しい」とは言えないということです。

 小さな子どもがお父さんやお母さんに対して、「なんでダメなの?」「どうしていいの?」などと「なぜなぜ」攻撃を仕掛けてくることがあります。子どもによってはどうしても取り敢えずの親の説明では納得できず、いつまでも「なんで、なんで?」を連発します。業を煮やした親は「うるさい!とにかくそうだからそうなんだ!」と怒鳴ってしまい子どもは泣いてしまうことでしょう。この親子のやり取りは、まさに「正義」や「規範」の本質をよく表しています。

「正義」や「規範」の理由や根拠など本当は何もない、どうやらこの辺りに私たちの社会が本当に望んでいる悲願(と同時に直面している苦難)がありそうな気がします。そして、前回ご紹介した男の子のお父さんのように、親や上司、先生といった役割を担っている人たちが傷つきながら直面している課題というものも、どうやらここにありそうです。

(次回につづく)

畠山正文

コメント

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