ふつうからの間違い探し


 ある中学生の女の子は、どうしても自分の顔が好きになれません。なぜなら、「ふつう」より右目と左目の間隔が離れていると感じるからです。友達と一緒に写った写真の、友達と自分の顔のそれぞれに定規をあてて「やっぱり・・・」とつぶやきます。私は「ふつう」とは違うんだと肩を落として落ち込みます。

 自分が「ふつう」ではないと思い始めると、どんどんと「ふつう」じゃないことが目につき始めます。「ふつう」よりも友達が少ないし、「ふつう」よりも明るい性格じゃない、「ふつう」よりも足が細くないし、「ふつう」よりも成績も良くない・・・。どんどんと自分は「ふつう」とは違っていて、ダメな人間に思えてきてしまいます。友達やお父さん、お母さんから、どんなに「別にふつうだよ」と言われてもダメです。

 こんなふうに「ふつう」からの間違い探しが始まると、ストップウォッチの遊びのように、「ふつう」と違うことが遊びになる余裕はありません。「ふつう」と違うことは、遊びどころか、前回の眠れない高校生と同様、切実で深刻な悩みや苦しみにつながっていきます。

 この中学生のように、思春期に差しかかった子どもたちは男女を問わず、多かれ少なかれこの「ふつうからの間違い探し」をします。この状態がひどくなると、さまざまな精神症状にまで発展してしまうこともあるのでもちろん切実な問題です。しかし、だからと言って、この状態を取り除こうとしても、なかなかこの「ふつうからの間違い探し」は終わりません。いやむしろ、気にしないようにしたり、その考えを否定しようとしたりすればするほど、状態がひどくなってしまうことさえあります。なぜなら、思春期の子どもたちにとって、「ふつうからの間違い探し」はとても大切なことだからです。この心の取り組みを行うことによって成し遂げようとする、ある大切な目的があるからです。もちろん、そんな目的など、当の本人は知らないことがほとんどです。その目的とは一体なんでしょう。

 それは「ふつうではない自分」の確認です。いやいや。先ほどの女の子は、「ふつう」になれなくて苦しんでいるのでした。だからこの女の子の目的は素直に考えれば「ふつうになりたい」でしょう、と多くの方は思われるかもしれません。しかしそうではありません。心の根っこのほうでは「ふつうではない自分」になりたい、あるいはならざるをえない方向に間違いなく動き始めています。「ふつうではない自分」というとネガティブな印象を受けるかもしれませんが、ポジティブに言い換えれば「他の誰とも違う自分」「かけがえのない自分」とも言えます。心の根っこではこうした自分になりたい、ならずにはいられない状態にあるにもかかわらず、「(やっぱり)ふつうでありたい」の方向に引き戻そうとする心の動きが、多くの場合苦しみや悩みを生み出し、それを深刻化させるのです。だからこそ、周囲から「別にふつうだよ」とか「気にし過ぎだよ」とかと言われても、なんのなぐさめにもなりません。これらの言葉は、心の根っこのほうが向かおうとしている方向と逆の方向に収めようとする言葉であるために、心が引き裂かれるような混乱状態を強めてしまいます。

 前回の眠れない高校生のように、老若男女問わず人間の心に睡眠の問題が生じるのも、この「ふつうでない自分」の現れと関連している場合が結構多くあります。これまで「ふつう」に伸びていた学業成績が伸び悩み始めたとか、新しい場所に引っ越してこれまで「ふつう」だと思っていた地域での人間関係がうまくいかないとか、職場の上司が変わってこれまでの「ふつう」の仕事のやり方が通用しなくなったとか、こうした状況に置かれると、人はふたつの時間がせめぎ合う睡眠の問題が生じることがしばしばあります。「ふつうからの間違い探し」も「ふたつの時間のせめぎ合い」も、どちらも共通して「変化」という現象に関わっているとも言えます。人は「変化」を体験するとき、睡眠の問題だけでなく、「ふつうからの間違い探し」に思い悩むことになります。逆に言えば、人がきちんと変化を成し遂げるためには、この思い悩みの体験はとても大切な体験です。

畠山正文


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