悩むことは、心を大切にすること

心ってなんだろう? 5/10

とある「ぼく」のストーリー 4

大学生になったぼくは、将来のことを真剣に考えなくてはいけなくなった。

幼稚園のころは、仮面ライダー。

小学生のころは、Jリーグ選手。

中学生のころは…、特になし。

高校生のころは、やっぱりプロのサッカー選手になれたらいいなと思うものの、そう甘くはいかない現実ばかりだった。

その後ぼくは何となく偏差値だけで入学したそれなりに有名な大学の経済学科の3年生となり、いよいよ本気で自分のこれからの人生を決めなくてはいけなくなった。

気がつくと、ぼくの無限の可能性はもはや全然無限じゃなくなっていた。あのころのキラキラとした将来の夢は、すっかり色あせてしまった。

現実は厳しい。企業に就職するためには、あのころの夢なんていう絵空事は心の窓から拭い去り、無理やりにでもその会社が求める人間という鋳型に、ぼくらしさを流し込まなきゃならない。

こうしてぼくは、その会社の一員に加えてもらうためだけにひねり出した言葉の魔術で、本当のところ大して入りたくもないが、それなりに有名でお給料も安定している企業に就職することになった。

 「心(こころ)」は、固くて確かな意志や言葉、現実になる手前の段階のゼリーのような状態、つまり「凝り(こごり)」の状態のことを指すのでした。

 わたしたちは、この「ぼく」のように人生の大切な決断に迫られたとき、つまり固くて確かな意志や言葉を懸命に生み出そうとするとき、ふと「あのころ」を思い出します。「無限の可能性」に包まれ、何者にでもなり得る一方で、何者にもなっていない「あのころ」。

 わたしたちはこんなゼリーのようなどっちつかずの状態と戯れながら、「これから」について真剣に悩みます。悩むということはですから、ゼリー状の「心」との交流を大切にするということでもあります。

  一方で、だからこそ悩むということは、大変な苦しみを伴うことでもあります。

 特に、はっきりとした結論が性急に求められる状況に立たされたときほど、ゼリー状のどっちつかずの状態は、わたしたちに耐えがたい苦しみをもたらします。

 「不登校」や「引きこもり」といった、わたしたちの社会が次々と生み出し続けている、かたいかたい殻の中に閉じこもってどっちつかずのゼリー状にとどまり続けざるを得ない人たちの苦しみは、その耐えがたい苦しみから無理やり解放させてあげようとする周囲からの暴力的な善意と、「無限の可能性」を秘めたゼリー状態にとどまり続けようとする本人の「心(こころ)」とのせめぎ合いによって生じると言えるでしょう。

(次回へ続く)

畠山正文

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