ゼリーの心

心ってなんだろう? 4/10

とある「ぼく」のストーリー 3

そう言えば高校生のころにも、ぼくは小学生のときのあのお母さんとの会話と、それから中学生のときのあの友だちとの会話とを思い出したことがあった。

そのころ付き合っていた彼女からこう言われたときだ。

「私と部活とどっちが大事なの?」と。

「……………」

ぼくは何も言えなかった。どうしても何も言葉にならなかった。

言葉にしたとたんに、その言葉はぼくの心を離れて全く別のものになってしまうのがわかったからだ。

サッカー部の部長として部活に打ち込むあまり、彼女と一緒にいる時間が少なくなってしまっていたそのころのぼくには、彼女に返す言葉を完全に見失っていた。

 「心(こころ)」の語源は、「凝(こご)る」にあるという説があります。「煮凝り」という言葉もありますが、「凝る」をイメージする上で「ゼリー」は最適です。液体と固体の間。どこか水のように流れていきそうでいて、どこか固まりそうな、その中間の状態にあるゼリー。暑い夏には、よく冷やしたゼリーはとても美味しいですね。苦い薬でもゼリーと一緒ならつるんと飲み込めたりします。

  この語源に従えば、「心(こころ)」は「モヤモヤ(ドキドキ、ぐるぐる、ぐちゃぐちゃ…)(=液体)」と「言葉(=固体)」との間にある、ゼリーのような状態のことを指します。わたしたちが、この「ぼく」のように「言葉」を失うとき、一度「モヤモヤ(ドキドキ、ぐるぐる、ぐちゃぐちゃ…)」のような液状化した何かに出会います。ここでは、「言葉」にならない「ぼく」の思いを敢えて無理やり「言葉」にしてみれば、「彼女のことはとても大事に思っている。でも、今はサッカー部がとても大切だ。だからと言って彼女のことが大事じゃないわけではない。でもどっちかと聞かれてしまうと、どうにも答えようがない。でも、答えないと伝わらない。…」まさにかきまぜられた液体が渦巻きを描くように、考えが「ぐるぐる」としてしまっている状態です。

 この「ぐるぐる」と液状化した状態と、例えば「いや、やっぱり彼女が一番大事だ!(あるいは、部活が一番大事だ!)」という確固たる意志のような「言葉」との間にあるどっちつかずの状態が、まさに「凝り」の状態、つまり「心(こころ)」そのものだと言えるでしょう。言い換えれば、「言葉にならない状態」にこそ、「心(こころ)」が表れるのです。

(次回へ続く)

畠山正文

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