どうせダメ

根っこと翼 vol.6

 私たちがかつてのように純粋に「望めば叶う」という信念にパワーを感じられなくなってしまっている背景には、GPSをはじめとした現代の高度な技術によって私たちの主体的な自由が皮肉にも奪われていることが関係していると、前回見てきました。しかし、それだけではありません。実は、私たちが重視している主体的な自由というものも、私たちが素朴に考えているほど単純なものではありません。

 ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデの短編作品に「自由の牢獄」というお話があります。ある男性が円形の建物の中に閉じ込められます。建物にはぐるりと一周たくさんの扉がついていて、どの扉を選んでも自由です。しかし、ある扉の向こうにはライオンが待ち構えているかもしれませんし、ある扉を出るととても心地よい花園が広がっているかもしれません。また、別の扉を出れば深い淵に落ちてしまうかもしれないし、他の扉を出れば大金持ちになれるかもしれません。どの扉を選ぶのもこの男性の自由です。が、この男性は結局どの扉を選ぶこともできず、この建物から出て行くことをあきらめ、何も望まなくなってしまいました。

 このお話は、自由ということを深く考えるのに、とても参考になります。私たちは、自分で何かを選択できることを自由だと考えています。しかし、このお話のように、自分の人生を賭けた、重大な決断に際しては、自由な選択肢というものは相当に不自由なものになってしまうという逆説です。考えてみれば、多くのやりがいを持って仕事をしている大人たちの多くは、その仕事をカタログの中から自由に選んで決めた、というよりも、何かさまざまな条件や事情が重なって、その仕事を選ばざるを得なかった、そして、この仕事が自分にとっての大切な使命なのだと感じていることが多いものです。つまり、自分で自由に選んだというよりも、まるで仕事のほうから自分が選ばれたというような感覚を持っている人ほど、その仕事に真剣に取り組むものです。何にでもなれるという無限の可能性は、皮肉にもこのお話の主人公のように、むしろどうせ何にもなれないという気分を作り上げてしまいます。

 もちろん、だからと言って、職業選択の自由がなくなればよいという話ではありません。真剣に望めば、どんな職業にでもなれる可能性がある、と信じられることは人間が生きていくうえでとても大切なことです。しかし、ただ自由が保障されていたらそれでよいというわけではないというところが重要です。「真剣に望む。」ここが重要です。今の社会には無数の自由の扉の前で、真剣に望むこともなく途方に暮れ、「どうせダメ」という気分に打ちひしがれながら日々を過ごす人が多くなっています。まるで無数の灯台に囲まれながらもどの灯台や港にも魅力を感じず、大海原をあてもなく漂流しているかのように。

(次回に続く)

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