心に入っていく勇気

心ってなんだろう? 10/10

とある「ぼく」のストーリー 9

妻とのすれ違いの日々が続くなかで、いつものちょっとした言い合いの後、妻が捨て台詞のようにこんなことをつぶやいた。

「仕事と家庭、どっちが大切なんだろう…」

妻のこの言葉を聞いた瞬間、小学生低学年の頃のお母さんとのあのやり取りが、ぼくの心にありありとよみがえってきた。

ぼく:   「チエちゃん(5歳のぼくの妹)とぼく、どっちが好き?」

お母さん:「どっちも好きに決まってるじゃない。」

ぼく:   「…うん!」

妻の心の中でも、あのゴチャゴチャが起こっているのかもしれない、とぼくは思った。

自分の仕事の頑張りを応援してもくれず、冷たい態度をとるばかりの妻をずっと責め続けていたぼくは、このときふと、「ああ、そういうことか」と思った。

その日の夜、妻と数年ぶりにゆっくりいろんな話をした。

ぼくはなぜか涙が出てきた。

妻も泣いていた。

妻との心の通い合いに胸が熱くなった。

 「親子」という形、「友だち」という形、「恋人」という形、「上司部下」という形、「夫婦」という形…。こうした「あるべき形」から心がはみ出しそうになるとき、わたしたちはなかなか言葉にならないゴチャゴチャした気持ちになるのでした。

 こんなふうに気持ちがゴチャゴチャすることがないように、例えば、「子どもたちへの愛情は平等に」とか、「友だちを傷つけないように」とか、「恋をするなら女心を学ばなければ」とか、「部下とのコミュニ―ケーションを心がけよう」とか、「ワーク・ライフバランスを大切に」とか、そんな「あるべき理想」を掲げていくこともときには大切かも知れません。

 しかし、それ以上に大切なことは、ちょっと大変だけれど、勇気もいるけれど、ゴチャゴチャの中に一緒に入っていくことなのではないでしょうか。

 ゼリーのようにゴチャゴチャな相手の心の中に入っていくことで初めて、そのゼリー状のゴチャゴチャは自分の心の中にもあるものであることがわかります。このゴチャゴチャの共振こそが、「あるべき形」や「決めつけられた言葉」を超えた、「ああ、そういうことか」をわたしたちの心にふと連れてきます。

 お互いに心が溶け合っていることを前提とした文化を築き上げてきたわたしたち日本人にとって、言葉は必要以上にわたしたちの心を傷つけ、人と人との関係をバラバラにしていきます。

 西洋由来の心理学は、「発達障害」「ストレス」「ハラスメント」など、日本人がこれまであえて言葉にしてこなかったゴチャゴチャに言葉を与えたという点で、人々に力を与え、勇気づけたことは間違いありません。こういうことにゴチャゴチャしてしまうのは、わたしだけではないんだ、がまんするばかりじゃなくていいんだ、と。

 しかしその一方で、こうした言葉が、家族や恋人、友人、上司部下など、身近な人と人との関係の間にどんどんと亀裂を入れて遠ざけ、多くの人がどこにあるともわからない理想の人間関係を追い求め、逆に孤立を深めているようにも思います。

 これらの言葉や、理想的な形ばかりにとらわれず、言葉や形をはみ出していて、ゼリー状で、どっちつかずで、言葉にならなくて…そんなゴチャゴチャした目の前の心に、わたしたち一人ひとりが少しでもともに入っていく勇気を持てたら、それこそがわたしたちの心と心が通い合う瞬間を生み出すのではないでしょうか。

 わたしたちの心は、本当は無限の可能性を秘めた「こごり」なのですから。

(終わり)

畠山正文

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