がまんの中のゆらぎ

持続可能なこころ vol.8

 がまんが希望によって支えられたとき、そのがまんはさらに高いレベルでの安定や落ち着きをもたらし、持続可能な心を育てていきます。そしてがまんを支えるその希望は、必ずしも本人の心の中に大きく存在している必要はありません。本人はこんながまんをしたってどうせ・・・と絶望しか心に抱いていなくても、周りにいる誰かが一人でも希望をもって本人に接していること、あるいは周囲ががまんできない本人を置いてきぼりにすることなく本人のがまんを支える形で希望に満ち溢れている時、そのがまんは持続可能な心を育んでいくことになるでしょう。前回の「セリグマンの犬」の実験で言えば、今は絶望的な状況でも、この努力を続けていれば自分の力でひょっとすると何とかなるかもしれないというかすかな期待や希望を抱ける周囲の環境が、苦しいがまんを何か良きことへとつなげてくれるのです。

 一方、がまんがただの徒労に終わる、あるいは絶望につながりやすいのは、そのがまんが希望ではなく、不安によって支えられるときです。このままがまんし続けなければ悪いことが起こってしまうかも知れないという不安を本人や周囲が感じており、それが希望よりも強い場合に、そのがまんは持続不能となる可能性が高くなります。そして、一度絶望によって持続不能となると、ちょっとやそっとの希望的な状況を与えられても、またがまんをする状況に戻ってこようなどとは思えません。自分の力では悪い状況に対処できなかったことを悟った「セリグマンの犬」が苦しい電気ショックを受け続けながら固まってしまったように。

 さて、「いつも陽キャ」を目指していたAさんのがまんが持続できなかった理由が少しずつ明らかになってきました。Aさんの「いつも陽キャ」というがまんの持続は希望に支えられていたのではなく、不安に支えられていた可能性があります。不安に駆られながら、「いつも」を目指していた可能性があります。だから、Aさんの必死の努力やがまんは持続できなかったのかもしれません。

 そして、もっとよく丁寧に見つめてみると、このように不安と希望が入り交じりつつ一進一退を繰り返すようながまんの時間には、必ず「ゆらぎ」があります。がまんとは本来、石のように固く同じ状態を持続させるということではなく、心に訪れるゆらぎを丁寧に、きちんと感じ続けられるときにのみ、持続できるものです。「石の上にも三年」の達磨さんが石の上に座り続けた理由もここにあります。ゆらぎ続ける大自然の中で、自分の心の中に代わるがわる訪れる悲喜こもごもの「ゆらぎ」を抱えるために、達磨さんは石の上に身を置こうとしたのでしょう。Aさんの「いつも陽キャ」の「いつも」は硬い石のような頑なさがあったので、その頑なさを崩す、もっと大きなゆらぎがAさんの心を訪れたと考えられます。

(次回に続く)

畠山正文

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