ふたつの時間


 ある高校生の男の子は、ある日突然夜眠れなくなってしまいました。寝よう寝ようと布団に入ってヒツジを数えますが一向に眠りは訪れてくれません。夜中にトイレに行ったとき、時計が2時くらいを指していたのは覚えていますが、その後もしばらく布団の中で格闘し、ほんのうたた寝をしている間に目覚まし時計が鳴りました。もう6時、起きる時間です。全然寝た気がしません。頭がぼーっとした状態で身支度を整え学校に出かけます。授業中も、休み時間に友だちと話しているときも、部活の練習中も、塾で勉強中も、睡魔と闘いながら必死で頑張ります。そうして家に帰り着くと、着替えも食事もできず、リビングのソファで爆睡。家族も声をかけますがぴくりともせず、そのまま夜の10時まで寝入ってしまいました。お腹が減ったーと思いながらむくりとソファから身体を起こし、キッチンに行って軽い夕食をとり、お風呂に入って、歯を磨いて、ちゃんと寝ようと布団につきます。……………やっぱり……………また眠れない。こうして翌日も全く同じような一日を過ごしてしまいました。結局、この高校生は、その週末になるまでこの不安定な睡眠状態が続いてしまいました。

 この高校生の体験の中に、ふたつの時間のズレが現れています。もう少し正確に言うと、わたしたちはこうした体験を通じて、ふたつの時間があることを実感します。時計が刻む時間と心に訪れる時間という、はっきりと異なるふたつの時間があることを。前回のストップウォッチの遊びでは、このふたつの時間のズレが楽しいひとときを作り出していました。一方、この高校生にとって、このズレは全く楽しいものなどではありません。時計の針はもう眠る時間を示しているのに、心にはその「とき」が全く訪れない――こじらせると睡眠障害にもなりかねない、切実で深刻な状況です。

 この心に訪れる時間という時間のほうをもう少し一般化して言うと、それは何か出来事が生じる「とき」と言えます。例えば、大きな地震が起こる「とき」。科学者たちは莫大な予算や労力をかけて、この「とき」を予測しようと懸命ですが、おそらくこの「とき」をカレンダーや時計で前もって正確に指し示すことは決してできないでしょう。地震だけでなく、災害や事件や事故なども、一般的に言って前もって時計やカレンダーで指し示すことはできません。さらにもっと身近な、わたしたち自身が生まれる「とき」も、病気になる「とき」も、死ぬ「とき」も、恋に落ちる「とき」も、芸術的に優れた作品が生み出される「とき」も、そしてもちろんわたしに眠りが訪れる「とき」もやはり前もって正確にカレンダーや時計で指し示すことは決してできません。つまり、良いことにせよ、悪いことにせよ、何かが生じる「とき」というのは、決して時計やカレンダーでは前もって指し示すことはできません。

 もう一方の、わたしたちが「ふつう」時間と呼ぶほうの時間、つまりストップウォッチや時計やカレンダーなどで指し示すことができる時間は、徒競走のタイム、会議が始まる時刻、夏休みの日数などの時間です。わたしたちがあらかじめ始まりと終わりを想定でき、計画することのできるこのような時間のことを、わたしたちは「ふつう」時間と呼んでいます。

 普通が不通になるとき。それは、この後者の時計やカレンダーで指し示すことのできる「ふつう」の時間よりも、前者の訪れる「とき」のほうが、わたしたちにより大きな影響力をもっているときだとも言い換えることができます。そしてそれこそ、HSPという概念を使い始めたアーロンさんがHSP傾向が有利に働く条件としてあげた「変化」という現象の本質です。変化とは、普通という安定が食い破られ、想定外のことが次々と生じて不安定化しつつ、新たな安定へと向かおうとしているまさにその流動的な状態のことを示します。

畠山正文


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