「やっぱり遠かった」という傷

 「だけど」という乗り越え。本来これは親密さの前提です。たとえ不快、あるいは否定的に感じられる人や出来事でも、近しい距離で苦労や葛藤をともに十分に体験しながら少しずつ受け入れられるようになることで親密さはさらに深まります。そしてこの乗り越えが生じているかのように上手く取り繕うのがスマートな技術による「親密さの確認」でした。さて、ではどのような時に、この取り繕いが心の傷や痛みとつながってくるのでしょうか。実はこれこそが、いわゆるネットいじめやネットストーカー、出会い系による性的被害や暴力被害といった状況に他なりません。こうした問題はほとんどの場合「遠いけど、近い(親しい)」という偽装が剥げ落ちて、「やっぱり(関係が)遠かったんだ(親しくなかったんだ)」という現実と遭遇したことをきっかけに生じます。

 例えばネットいじめ。学校や大人から禁止されているスマートフォンを通じて、この禁じられた通信手段を使わなければやり取りできない夜の時間帯に、教室の中では決して大っぴらにはできない内緒の話題をやり取りする。このような時、人は誰でも「遠いけど、近い」という乗り越えを実感するものです。遠いというのは距離的な遠さだけではありません。様々な制約も人に心理的な遠さを感じさせます。もう一昔前の話題になってしまいましたが、例えばAKB48の握手会にファンがあれほど熱狂したのは、それまでの常識ではアイドルは多くの制約がありとても近づけるような存在ではありませんでした。だけどAKB48には公然と近づけるチャンスがある。この「遠いけど、近い」という心理的な距離のギャップが、親密さの大転換が、人を熱狂させます。同じように、禁じられた通信手段、夜の時間帯、秘密の会話といった様々な制約が私たちの心に心理的な距離を生み出し、スマートな技術によるその距離の乗り越えがドキドキ感や高揚感を強烈に私たちのもとに届けます。こうして、私たちはスマートフォンの会話の中に異常なまでに強烈な親密さを実感するのです。しかし、深夜に及ぶまでのやり取りであれほど親密さが深まったにもかかわらず、一夜明け教室で顔を合わせるとあの友人たちはまるで別人のように素気ない。この「やっぱり遠かったんだ」という現実との遭遇に当惑し、現実の教室でも何とか仲良くしようと近づくと、「あいつ、めんどい」などと何となく仲間はずれになることがあります。また、スマートな技術の親密さを支えている時間の問題がいじめに発展することもあります。その場のLINEでの空気が即レスを求めている場合うっかりレスが遅くなってしまう人や、逆に空気によっては即レスを強要しすぎる人がターゲットになることもあります。

 このようにネットいじめの問題では「遠いけど、近い」という乗り越えが本当は偽装であることをわかりつつ、現実の関係とは区別するようにやり取りをするのが暗黙の了解なのにもかかわらず、そこに本当の親密さを強く求め過ぎる人がいじめのターゲットになりやすいようです。

 ネットいじめについて、このように考えていくと改めて二つの疑問点が見えてきます。一つは、ネットいじめの加害側になりやすい人たちに対する疑問点です。さきほどの「あいつ、めんどい」などと呟くような、深夜のスマホでの顔と教室の現実での顔とをスマートに使い分けるような人は、スマートな技術の中の親密さが現実の親密さとは異なる偽物っぽさに気づいています。だからこそ両者を区別して、深夜のスマホの関係は偽物だよと言わんばかりに教室ではスマートでクールな態度をとるわけです。では、なぜわざわざこの偽装されたスマートな親密さを彼らは必要とするのでしょうか。現実のスマートでクールな関係だけでは、足りない何かがあるのでしょうか。SNSがこれだけ爆発的に私たちの現実生活に広がり浸透しているのは、私たちが意識的にも無意識的にもこうしたスマートな親密さを求めている証拠です。なぜ私たちはわざわざ現実とは異なる偽物の親密さを求めるのか。これが一つ目の疑問です。

 もう一つの疑問点は、ネットいじめの被害側になりやすい人たちに対する疑問点です。彼らはこの偽装されたスマートな親密さこそが本物の親密さだと強く感じています。だからこそ、不用意に教室でも同じ関係を求めようとして「やっぱり親しくなかったんだ」と傷ついてしまいます。なぜ、この偽装された親密さを本物の親密さだと感じてしまうのか。ネットストーカーや出会い系の問題などはこちらの疑問点から考えるべきでしょう。

 この二つの疑問点に応えていくことが、わたしたちがスマートな技術とどのように向き合ったらよいのかのヒントを与えてくれるでしょう。

(次回に続く)

畠山正文

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