LINEやFacebook、TwitterなどのSNSが「親密さの確認」というコミュニケーションを目的にしているということには、二つの「偽装」が関係しています。「偽装」というと不穏な響きですが、「偽装」が「そうとは知らずにいつの間にか偽物を本物だと思い込まされてしまう」という意味である限り、「スマート」な技術による「親密さの確認」は、やはり「偽装」です。
一つ目は、「近さ」の偽装です。下のLINEのやり取りは、Twitter上で知り合い、一度も直接は会ったことがないけれども、本人たちは“付き合っている”と言う恋人同士のある夜のものです。
親密さには、「近さ」が関係しています。家族や幼なじみのことを親密だと感じるのは、物理的に接している距離が近いからです。特に、親子や夫婦、恋人などの特別な親密さは、肌と肌が触れ合うほどの距離的な「近さ」に支えられています。しかしながら、このLINEのやり取りをしている恋人は肌と肌が触れ合うどころか、直接顔を合わせたことさえありません。にもかかわらず、「つながってる」と感じられるのは、なぜでしょう。もちろん、「〇〇くんのこと考えてた」「おれも」というやり取りの内容もこの「つながってる」感には影響をしているでしょう。しかし、それだけではありません。むしろそれ以上に重要な何かがこの恋人同士の心に「近さ」をもたらしています。さて、それは一体何でしょう。
このLINEのやり取りの時刻に注目してください。すべて「0:42」という同じ時刻にやり取りされています。この恋人同士の心に「近さ」をもたらしているもの。それは時間です。時間的な「近さ」こそ、この恋人同士の間に親密さをつなぎとめている重要な糸です。LINEの既読無視によって私たちの心にもたらされる不安やいら立ちは、自分のメッセージに既読が付いてから返事が返ってくるまでの時間の長さに比例して大きくなります。本来親密さの基盤となるはずの距離的な近さ(どれだけ近くでともに過ごすか)を、時間的な近さ(どれだけ早くレスポンスするか)に置き換えて、親密っぽく装うこと、これが「スマート」な技術による一つ目の偽装です。
次にもう一つの「偽装」です。この偽装を考えることはそもそも親密さとは何なのかをより深く考えることにつながります。よく「ケンカするほど仲がいい」と言いますが、この言葉は親密さの本質をよく言い当てています。ちょっとやそっとのケンカくらいではその関係が揺らぐことがないくらい、絆がしっかりしているということを表す言葉です。確かに私たちが親しい間柄だと感じる人には、迷惑かなと思える要求や軽い文句なども自由に言い合えます。ということは、迷惑や文句、ケンカのようなネガティブな何かでも、受け入れてくれたり、理解してくれたり、抱えてくれたりしてくれるかどうかは、互いの親密さの一つの目安になるということです。よその人や他人であればあるほど、なかなかネガティブなものを受け入れるのが難しくなります。もちろんいくら親しくても、度が過ぎれば「親しき仲にも礼儀あり」となりますが、だからと言って礼儀ばかりの関係に親密さは感じにくいでしょう。「ケンカするけど仲良し」とか、「やんちゃ坊主だけどかわいい」とか、「厳しいお父さんだけど大好き」とかという具合に、親密さの本質には「だけど」という逆接的な関係がセットされています。ここは、親密さを考えるうえで大切なポイントです。
逆の場合を考えてみましょう。「だけど」の関係ではなく、「だから」の関係です。例えば、「ケンカしないから仲がいい」とか、「とてもいい子だからかわいい」とか、「優しいお父さんだから大好き」とかという関係。この「だから」の関係は、いわば当たり前の関係です。条件付きの関係のため、常に不安定さを抱えた関係でもあります。「ケンカをしたから仲が悪くなる」とか、「悪い子になったからかわいくない」とか、「怒るお父さんだから大嫌い」とかという具合に、状況が変わってしまうと途端に親密さが反転してしまう脆さを抱えているのが、「だから」の関係です。私たちは、誰かとの関係に「だから」の関係よりも、「だけど」の関係を実感できるほど、その関係をより親密な関係だと感じられるということです。親密な関係には、「だから」の関係ではなく、「だけど」の関係がとても大切なのです。
ではそのことと、スマートな技術による「親密さの確認」の偽装との間には、どのような関係があるのでしょうか。まず、一つ目の偽装を思い起こしてみましょう。スマートな技術による親密さの一つ目の偽装は、近さの偽装でした。「本当は(距離的に)遠いけど、(時間的に)近い」という技術的な偽装を通じて、私たちはまるでつながっている、いつもそばにいるという親密さを実感できるのでした。ここに「だけど」の関係が成立しているのです。「遠いけど、近い」という「だけど」の関係が。
一般的に、距離的な遠さというのは、親密さの観点から見るとマイナスに働きます。引越しをしてしまった人、転校してしまった人、職場を異動してしまった人。距離が遠くなることをきっかけに、関係が疎遠になってしまった人というのは誰しも多かれ少なかれいることでしょう。距離が遠いとなかなか親密さを維持するのは大変なことです。しかしここで「遠いけど、親しい」という関係が成り立ったとき、つまり引越しや転校をしたけど、それでもその距離を乗り越えて仲良しという関係が成立したとき、その関係は特別な親密さに発展したということになります。この親密さの発展は、「だけど」の関係が成立したことでもたらされる発展です。
スマートな技術による二つ目の偽装は、この「遠いけど、親しい」という「だけど」の関係を技術的に装うものです。しかし、この偽装の何が問題なのでしょう。「遠いけど、親しい」という関係が成立していること、つまりスマートフォンの中で遠い人たちとつながっていることは、とても喜ばしいことではないでしょうか。確かに偽装かもしれないが、それで距離の遠さを乗り越えられているのだから、むしろ歓迎すべきことです。わざわざこのことを偽装だと騒ぎ立て、問題視する必要などないように思えます。
ところが、スマートという文明の利器が傷つけているもののことを真剣に考えようとするとき、この偽装こそが問題になるのです。本来、親密さを成立させるはずの、「だけど」という乗り越えが本当は起こっていないのに起こっているように見せかける、この偽装こそが。
(次回に続く)
畠山正文
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