がまんの条件

持続可能なこころ vol.6

 「ゆらぎの持続」、それは自然が自然に持っている特徴です。達磨さんが山奥の石の上に三年も座っていたのは、この「ゆらぎの持続」を体験するためだったかもしれません。一方のAさんはどうでしょうか。実はAさんも「ゆらぎの持続」を体験せざるを得ない状況になっています。「いつも陽キャ」でありたいのに、暗い気分が津波のように襲ってくるという、この気分の津波こそが「ゆらぎ」の正体です。わたしたちの感情や気分もまた、風や波や虫や鳥と同じように本来ゆらぎ続けています。しかし、その「ゆらぎ」を「がまん」によって一定の状態に固定しようとし過ぎるとき、その反動から津波のような大きなゆらぎに翻弄されてしまうことになります。自然は絶えず昼と夜という正反対の状態を毎日毎日代わるがわるゆらぎながら繰り返していますが、夜は暗いから怖いからといって「いつも昼間」に固定してしまったらどうでしょうか。Aさんの悲願、「いつも陽キャ」は、この「いつも昼間」にしようとする試みに似ています。「いつも昼間」という不自然な状態の反動から、「いつも夜中」のような暗く深い闇に長い時間Aさんの心は閉じ込められてしまうのです。

 本当のメンタルの強さには、この「ゆらぎ」があります。「いつも陽キャ」は「長い時間ポジティブな状態が一定に継続していること」という持続性の問題だと以前触れましたが、これは文字通りの「いつも」ではなく、昼と夜とを代わるがわる「ゆらぎ」ながら繰り返すような「いつも」です。文字通りの「いつも」を実現しようとしたところにAさんの気分の津波の要因がありました。また、この「ポジティブな状態」とは「ゆらぎ」のどちらの側面なのだろうかという問題もなかなか難しい問題です。自然の「ゆらぎ」をポジティブかネガティブかを決めているのは、その「ゆらぎ」そのものではなく、「ゆらぎ」を体験する人の体験の質によって変化するのですから。小春日和にお散歩をしている人にとって春風はポジティブな体験かもしれませんが、花粉症の人にとっては実にネガティブな体験です。夜が苦手な人もいれば、魅力を感じる人もいるでしょう。自然の「ゆらぎ」そのものは、ただゆらいでいるだけでポジティブもネガティブもありません。

 このように見てくると、今度は逆のことも疑問に思わないでしょうか。どうしてわたしたちはAさんのように感情や気分の状態を、がまんによって一定の状態に固定しようとし過ぎてしまうのでしょうか。なぜわたしたちは「いつも陽キャ」「いつも昼間」を目指してしまうのでしょうか。風や波や太陽や月の動きのように寄せては返しを繰り返す「ゆらぎ」がわたしたちの気分や感情の特徴なのだとすれば、なぜわたしたちは暗い気分を押さえつけてわざわざ「がまん」によって「いつも昼間」を実現しようとするのでしょうか。常識的にはがまんすることで成長することがあるというのは知っています。しかしがまんがAさんのように気分の大津波に発展してしまうことがあるのだとしたらがまんなどしないほうがよいようにも思えてきます。がまんすると心の成長につながる場合もあれば、逆に心の決壊につながる場合もあるというような違いはどうして生じるのでしょう。がまんが、良い結果につながったり、悪い結果につながったりするのはどうしてなのでしょう。がまんには、良いがまんと悪いがまんがあるということなのでしょうか。

 少しだけほのめかすように先取りすると、がまんをするときの条件が問題となります。がまんに良い悪いがあるというよりも、どういうときにはがまんが良いことになり、どういうときにはがまんが悪いことになるのか、という条件が問題です。こうした条件を一切無視して、それこそ「いつもがまん」を目指すとき、心はたくさんの災害を招いてしまい持続不可能な状態へと発展してしまいます。さて、そのがまんの質を左右する条件とはいったい何でしょう。

(次回に続く)

畠山正文

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