不安について考えよう(1)
今まさにわたしたちは100年に一度とも言われる感染症をめぐる世界的な不安の真っただ中にあります。この感染症がパンデミックを起こし始めてから早くも1年以上が経過していますが、流行の波は寄せては返しを繰り返し、いまだ終息の兆しは見えません。こうした繰り返される流行の中で、感染そのものに対する不安だけでなく、感染の流行に伴う経済上、生活上の様々な不安に苦しんでおられる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。こうした不安について、わたしたちはそれにただ巻き込まれるだけでなく、どのように考え、またどのように対処していけばよいのでしょう。そのことについて考えていきたいと思います。
まず初めに、一般論として不安という気持ちがなぜわたしたちの心に生じるのかということから考えてみましょう。不安は私たちにとって厄介で困ったものですから、こんな気持ちはそもそも必要ないのではないか、あるいはあったとしてもすぐにすっきり解消されたらよいのに、と感じたことはないでしょうか。「これからどうなるんだろう?」「この状況がいつまで続くんだろう?」といった不安ばかり抱き続けていては、どんどん精神的に疲れてきてしまいますし、ひどくなると不安障害と呼ばれる精神疾患にまでいたることもあります。確かにそのような点だけを見れば不安な気持ちはすぐにでも解消し、安心して過ごせるようになったほうが良いに決まっている、と常識的には言えるかもしれません。
ところで、不安とよく似た言葉で、「恐怖」という言葉があります。よく知られた用語で言うと、例えば「高所恐怖症」とか「閉所恐怖症」とかと言う場合には、一般に「恐怖」という言葉を使います。「高所不安症」「閉所不安症」とはあまり言いませんね。一方、「対人恐怖」という言葉には、「対人不安」という似た表現もあります。ただし、「対人恐怖」と「対人不安」とは、言葉のもつニュアンスが若干異なるのにお気づきでしょうか。このニュアンスの違いにこそ、不安と恐怖の、似て非なる面が潜んでいます。
恐怖というのは、基本的には目の前に差し迫っている危機に対する感情的な反応です。目や耳や肌などの感覚器官で直接感じ取れる危険への反応と言い換えても良いでしょう。シマウマが向こうの低木の茂みにライオンの姿を目で見た場合、恐怖を感じます。同じように高所恐怖では、高い所に実際に上り身の毛もよだつその高さを直接感じとって初めて恐怖を感じるため恐怖という言葉を使います。高い所に実際に上らない限り、一般的にはその感情は起こりません。
一方、不安は、実際にその危機が差し迫っていなくても生じる感情です。例えば、ボスとの闘いに敗れたオスのボノボは、しばらく群れに近づくことができず、人間の対人不安によく似た反応を示すことがあります。群れから外れて引きこもり、食欲不振になったり、脱毛や抜毛が見られたり、ひたすら同じところをグルグル回り続けたりといった反応をします。ボスに襲われる危険など直接差し迫ってはいないのに、です。人間の対人恐怖と対人不安の違いも、この直接的な危機の切迫感の有無が、言葉のニュアンスの違いに影響しています。
恐怖と不安の違いをこのように考えてみると、直接的な危機が迫っていないにもかかわらず、嫌な感情が霧のように心に立ち込めてくる不安という感情は、ますます無意味なように思えてきます。なぜわざわざわたしたちは不安などという直接目に見えず聞こえもしない何かのために、心にモヤモヤを抱えなければならないのでしょうか。
(次回に続く)
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