心が溶け合う瞬間

心ってなんだろう? 8/10

とある「ぼく」のストーリー 7

ぼくが会社の人間関係について悩んでいたころ、ぼくの家には長男が生まれた。

まだ目も開かない小さな小さなわが子をおぼつかない手つきで腕に抱いた。

その瞬間、ぼくは心のずっと奥の方がじんわりと熱くなるのを感じた。

冷え込んだ夜に湯たんぽを抱きながらふかふかの毛布にくるまるときのあの感じや、大切にしすぎて失くしてしまっていた小さい頃の宝箱が掃除の最中にふと姿を現したときのあの感じにもなんとなく似ているけれど、それよりずっとずっと暖かく尊い何かに触れている感じがした。

ぼくは、妻の顔をまっすぐに見て、「ありがとう」を言った。

妻は疲れた表情ながらも、照れ臭そうにはにかんだ。 

妻が入院している病院から一人で家に帰る途中、ぼくは会社の人間関係で悩んでいたことが、何だかひどくどうでもいいことのように思えてきた。

あの小さなわが子の温もりこそが、かけがえのないぼくの全てのような気がしたのだ。

翌朝、会社に出勤し、あの51歳の部下に「おはようございます!」と元気に明るく挨拶をした。

相手の反応はいつも通りだったが、ぼくの心の中では、なぜかいつもと全然違っていた。

この人も、あんなふうにこの世に生まれてきて、あんなふうに誰かの心に温もりを届けたのだとすると何だかとてもかけがえのない大切な人のように思えてきたからだ。 

 私たちは愛くるしい赤ちゃんをやさしくそっと腕に抱くと、不思議と心の奥の方から温かさがじんわりと湧き上がってくるのを感じます。

 そして、この温かさが赤ちゃんと「ぼく」というふたつの別々の存在を、まるでひとつの存在であるかのように溶かしていきます。ふたつの別々の容れ物におさまっていた「心(こころ)」というゼリーが、ひとつに混ざり合います。

 赤ちゃんを抱きながら、まるでもっと大きな誰かの腕の中に赤ちゃんと「ぼく」とのふたつの心が抱きかかえられていくような、そんな心持ちにもなるものです。だから、「ぼく」は「尊い何かに触れている」と感じるのでしょう。 

 わたしたちは、こうした「尊い何か」に触れると、日常の些細な悩みや苦しさが「どうでもいいことのように」思えたりします。

 わたしたちの心をはみ出させるものでもあり、私たち一人ひとりを区切っているものでもある衣装を自ら脱ぎたくなる瞬間です。

 この「ぼく」も、わが子との出会い、そして「尊い何か」との出会いがきっかけで、あれほど苦手だった51歳の部下とも心が通い合っていくような気持ちになりました。社会的な役割という心に纏う衣装の問題がふと消えゆく瞬間です。

 夏から秋へ、秋から冬へ、私たちが衣替えをするように、未熟から成熟へと衣替えをする、つまり「青年から父親へ」「乙女から母親へ」「平社員から管理職へ」と「なる」ためには、「尊い何か」に触れながら心が溶け合う瞬間をわたしたちは切実に体験する必要があります。

(次回へ続く)

畠山正文

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