ただ生きているだけで何かを傷つけている

 私たちはこの社会に普通に生活しているだけで、誰かを傷つけているのかもしれないという、ちょっとこわいことを前回はお伝えしました。今回はさらにびっくりすることをお伝えします。でもよく考えれば当たり前のことでもあります。それは、私たちは「ただ生きているだけで何かを傷つけている」ということです。社会で生活することによる暴力であれば、例えば山にこもって仙人のような生活をしたり、家に閉じこもってしまったりすれば、ある程度は防げます。でも、今回取り上げたいのは、「ただ生きているだけで」というところがポイントです。これはもう生きるということを続ける限りどうしても付きまとってしまう、そういうタイプの暴力です。 

 その生きている限り逃れられない私たちの暴力とは何でしょうか。それは「食べる」ということです。現代を生きる私たちがあまりにも心の中からきれいさっぱり忘れてしまっていることは、この「食べる」ということの中にある暴力です。スーパーに並べられたお肉や魚、野菜を見て、「ああ、暴力的だなあ」「残酷だなあ」と思う人はまずいないでしょう。そのくらい「食べる」という行為に本当は付きまとっている暴力のことを私たちはきれいに忘れています。

 では、なぜこんなにもきれいに忘れていられるのでしょうか。私たちがそうとも気づかず何気なく行っている日常のある行為とそうとも知らずに支えられているあるもののおかげで、この暴力を忘れられています。それは、「行儀」と「システム」です。どういうことでしょうか。

 例えば、食事前の「いただきます」、食事を終えた後の「ごちそうさまでした」こうしたごあいさつをするという「行儀」には本来、生き物の命を奪って私たちが生きながらえていることへの自覚と、私たちのために死んでしまった生きものたちへの感謝という二つの思いが込められています。こうした自覚と感謝を食事をいただく度に一生懸命繰り返すことで、暴力によって命を奪ってしまった生きものたちから少し許してもらえているんじゃないかと思えることがあるかもしれません。そうすると、私たちは暴力による罪の意識を少し忘れられるということがあります。 

 もう一つ、現代の食料の生産と流通、販売の「システム」も、「食べる」ということにつきまとっている暴力を忘れさせてくれる重要な要因です。最近は先ほどの「行儀」よりもこの「システム」の方がメインの要因と言っていいでしょう。少し言い換えれば、この「システム」の過剰な影響で、あまりにも私たちは「食べる」という行為に潜む暴力を忘れ過ぎてしまっています。

(次回につづく)

畠山正文

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