人は傷つくことで人になる

 前回、ヤマアラシのジレンマという寓話をひきながら、「人を傷つけてはいけない」という道徳から始めるのではなく、「人は人と関わる際、残念ながら相手を傷つけてしまう可能性がある」という現状認識から始めることの大切さをお伝えしました。さてでは、今「残念ながら」と表現しましたが、「人を傷つける」というのは本当に「残念なこと」なのでしょうか。本当は誰も傷つけずに生きていくことは可能なのに、「残念ながら」傷つけることになってしまうというようなネガティヴな行為でしかないのでしょうか。ヤマアラシの棘はただの厄介ものなのでしょうか。今回はこのことを考えてみたいと思います。

 「傷つける」という状況の最もわかりやすい例は暴力でしょう。「いじめ」「ハラスメント」「ドメスティックバイオレンス」「虐待」などの事案は全て言葉の暴力を含む暴力の問題です。こうした事案の中には本当に残酷なものもあるため、暴力がなくなればと切に願いたくもなります。しかしだからこそ、「人を傷つけてはいけない」という単純に過ぎるスローガンによる逆襲的な「言葉の暴力」をまずはもう少し丁寧に吟味しなければなりません。

 「人は暴力によって人になる」という表現をすると驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。しかしこれは本当です。子どもの「しつけ」を考えてみればそれがある程度わかります。どこででもうんちやおしっこをしていいのではなく、トイレでしなさいと強制される。食事のマナーを強要される。野生動物から見たらこれは暴力的に理不尽なことです。自然な欲求や動物的な欲望を暴力的に制限されてはじめて人は人になるのです(最近はしつけから暴力的な要素を取り除き過ぎて別の問題も起こっていますが)。しつけに厳しい親や先生を「怖い」と感じるのは、この暴力的な圧迫への直感に由来します。

 つまり、しつけや道徳、あるいは正義や法律といった私たちが人として生きるために大切なことの中には、そもそも「暴力」がセットされているということです。しかし私たちはそれらをあまりにも正当化し過ぎているため、あまり「暴力」とは認識していません。しかし受け手にとってこれは間違いなく「傷つけられる」体験なのです。しつけと虐待の境界線をめぐって難しい状況が生じることが、このことを裏づけています。私たちの社会はこの傷つけているとは意識さえしていない「傷つける」行為(=暴力)によって成り立っています。このように考えていくと、「傷つける」という行為は、「残念なこと」どころか、むしろ私たちの社会の秩序にとって重要なことということになります。

 さて困りました。「人を傷つけてはいけない」という道徳を、もう一度真剣に考え直さなければならなくなりました。なぜなら私たちはこの社会に普通に生活しているだけで(社会の秩序を守ろうとするだけで)、誰かを傷つけているということになってしまうのですから。

(次回につづく)

畠山正文

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