不安をともにする

不安について考えよう(6)

 妄想にしても、強迫にしても、不安に対してわたしたちは全くなす術がないのでしょうか。そんなことはありません。きちんと対処方法があります。今回は、そのうちの一つ目の方法をご紹介しましょう。

 以前お話ししたように、不安は直接目に見えず、感じることもできないときにどんどんと大きくなっていく感情です。不安への対抗としての希望は、ですからあまり対抗にはなりません。希望もまた一般的には直接目に見えず、感じることもできない実体のないものに対する感情だからです。「みんなに嫌われている」という妄想的な不安に対して「大丈夫。みんなから嫌われているわけではないよ」という希望を抱かせる助言は、ますます不安を増幅させてしまいます。そんな口先だけの希望は、目に見えず、感じることもできないからです。

 不安を制することができるのは、不思議なことに実はもう一つの不安です。もう一つの不安、それはもう一人の誰かの不安です。自分とは違うもう一人の誰かが不安を自分と同じようにともにありありと感じてくれるときに、たった一人で苦しんでいた不安の渦から抜け出す可能性が出てきます。

 例えば、「みんなに嫌われている」と不安を感じている人に対して、「嫌っているのは誰なんだろう」「そう感じるのは特にいつなんだろう」と誰かが真剣にその不安な場所を訪ねていくとします。それはまるで、不安というもやもやとした霧の中に、本人とともに足を踏み入れていくような感覚です。そして聴いているほうもまたその霧の深さに当惑していきます。こうなると不安は本人のものだけでなく、その霧の中に足を踏み入れた聴き手のものにもなってきます。こうして不安がともに体験されることで、それまでは自分だけのなかで閉じているだけだった感情が、具体的な相手の姿として目に見え、声として聞こえる感覚に変化していきます。これが、不安というもやもやに実体を与え、落ち着くきっかけを作り出します。

 よく苦しんでいる人や悩んでいる人には共感が大切だと言いますが、共感の重要性はまさにここにあります。「そうか。不安に感じているだね」と応じることや相手の言葉をオウム返しをすることを共感だと勘違いしている人も多いですが、そうではありません。その感情を体験した状況や場面をまるで自分の身に起きていることのように具体的にありありと思い描きながら、聴いている人もまた相手が感じているであろうその感情の中に覚悟をもって入っていくことを本来は共感と呼びます。ですから、不安が落ち着くための一つの方法は、口先だけでなく心から共感してくれる誰かに話を聴いてもらうことです。

(次回に続く)

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