受け入れがたい傷

 「正義」や「規範」には本来理由や根拠などない、とは言うものの、それでもやはり、私たちは「人をむやみやたらに傷つけてはいけない」とか、「信号無視をしてはいけない」とかという「正しさ」が心の中にしっかりと根拠をもって確信されています。この確信に根拠がないなんて、とても思えません。この確信を支えている根拠は、一体何だというのでしょうか。このなぞを解くカギが、「傷」と「行儀」です。

 以前ご紹介したお父さんとは別のお父さんの例を見てみましょう。

 このお父さんは、やはりある小学生の男の子のお父さんです。日ごろからとても穏和でやさしく思慮深いお父さんです。ある日、その男の子は友だちの家に遊びに行った際、遊びに夢中になってうっかり友だちが大切にしているカードゲーム用のカードをポケットに入れて自宅に持ち帰ってしまいました。うっかりとは言えなかなか手に入らないレアものだったため、また言い出したら怒られてしまうのではないかという怖さもあり、その男の子は誰にも何も言わず黙っていました。翌日、学校に行くとその友だちは大事なものがなくなったのでとても落ち込んだ様子でした。仲間同士であれこれ話しているとどうもあの時この男の子がポケットに入れたらしいということが徐々にわかってきました。しかしこの男の子は、「ぼくはその後ちゃんと返した」と嘘をつきました。

 こうなると話は大ごとになってきます。カードがなくなった友だちは家に帰ってお母さんに話をします。このお母さんは、人をあまり疑いたくないと思いつつも、この男の子の家に電話をかけました。電話に出たのはこの男の子のおばあちゃんでした。事情を聞いたおばあちゃんは、男の子に問いただしました。男の子は頑として「ぼくは持ってない。ちゃんと返した。」と言い張ります。おばあちゃんは男の子を信じました。

 その夜、お父さんが仕事から帰ってきて、おばあちゃんから事情を聞きました。改めてお父さんが男の子に問いただしました。それでも男の子は「知らない」を通します。しかしお父さんは男の子の視線が少しそれたのを見逃しませんでした。お父さんは黙って真っ直ぐに男の子の目を見つめました。男の子は視線をそらします。

 するとお父さんは自分が子どもの頃の話をし始めました。お父さんが小学生の頃、お父さんのおばあちゃんがとても大切にしていたお湯呑みを割ってしまったことがあり、それを家の庭に埋めて隠したことがあると言うのです。結局、そのことは誰にも言えず、またそのことについて怒られることもないまま月日が流れ、お父さんが中学生の時におばあちゃんは亡くなってしまったそうです。後からこのおばあちゃんは全部知っていたことを知らされ、お父さんはとても恥ずかしい思いをしたそうです。嘘をつき続けると苦しい思いをずっと抱えなければならない、そういう体験だったと、お父さんはその話だけして、男の子の側を離れました。男の子はものすごく苦しい気持ちになりながら、それでも結局その場では何も言えませんでした。

 それから数日後、ひょんなことからカードはこの男の子が持っていることが判明しました。そのことを知ったお父さんは男の子の元に行き、男の子の目を真っ直ぐ見つめて「パシッ」男の子の頬をたたきました。男の子は涙を浮かべて歯をくいしばります。お父さんの目にも涙が浮かんでいます。このふたりの涙は、男の子が犯した罪に対する涙だけではありません。この家にお母さんがいないことへの悲しみを湛えている涙でもあります。受け入れがたいものを受け入れなければならない、不条理さに対する涙です。

 このお父さんと男の子には、共通の「傷」があります。この「傷」を見ないようにするのではなく、向き合って繰り返すという「行儀」や「儀礼」のなかに、「正しさ」を支える根拠が宿ります。受け入れがたい不条理な「傷」を、ともに向き合って繰り返すことで、このお父さんと男の子は涙を湛えて懸命に心に修めようとしています。私たちにとって受け入れがたい「傷」を「行儀」の姿勢を持って心の中に迎え入れようと苦闘するとき、私たちの心と身体には本当の「正しさ」の根拠がありありと刻み込まれます。私たちの心の中の「正しさ」の根拠、それは私たちの体験以前のいつかやどこかに普遍的なものとして存在するのではなく、「傷」と「行儀」という体験によって心と身体に刻み込まれるのです。

(次回につづく)

畠山正文

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