裸のヤマアラシの希望

 同僚の真似をして小部屋に閉じ込めたお父さんと、涙をいっぱいに浮かべて平手打ちをしたお父さん。この二人のお父さんの「正しさ」を伝える姿勢の違いは一体何でしょうか。一方は、虐待かのような扱いを受けてしまい、もう一方は、男の子の心に確実に「正しさ」の痕跡が刻み込まれているようです。虐待としつけを明確に区別する、この違いは一体何だと言うのでしょうか。受け入れがたい「傷」を「行儀」の姿勢で心の中に迎え入れようと苦闘する時に、「正しさ」の根拠が宿る、前回そんなふうにまとめました。では、「行儀」の姿勢とは、改めて何でしょうか。

 前回ご紹介したお父さんは、友達のカードを持って帰ってしまったわが子の罪にももちろん心を傷めているわけですが、同時にこういう時に安心して正直に自分がやったと言い出せないくらいに家庭の中でわが子を追い詰めてしまっている父親としての自分自身の罪にも同時に心を傷めているというところが重要なポイントです。この二つの傷みに心が引き裂かれそうになりながら、それでも父として子どもに伝えなければならないことがあると、涙を湛えてわが子の頬を叩くその父の姿に、男の子は「正しさ」がまさに立ち現れてくる瞬間を感じ取ったのです。

 自分が自分自身として生きていることと、そうであるがゆえに自分以外の生き物が傷ついてしまうこと、この不条理がどうにもならないことと自覚しながら、それでも私が生きるために他の生き物に理不尽な傷つきを強いなければならない時に発する言葉、それが「いただきます」でした。このお父さんの姿勢が、「行儀」の姿勢だというのは、まさにこの理不尽な矛盾に向き合う姿勢、これです。

 「友達や家族を傷つけてはいけません」この言葉は全く正しい忠告です。ですが、全く正しい忠告ほど、生きていくための実用に耐えがたいものはありません。この言葉から出発したこの冒険も、ようやく結末に近づいてきました。なぜ、この忠告が実用に耐えがたいのか、もはや説明するまでもないでしょう。この忠告が本当の実用性を発揮するには、この忠告の意味内容と矛盾する理不尽さを侵さねばならないからです。この矛盾は決して「システム」的な姿勢からは乗り越えられない矛盾です。

 本当は、今も昔も、私たちの誰もが、誰かや何かを傷つけてしまう可能性や、傷ついてしまう可能性に絶えず曝され続けてきたはずです。本当は誰もがジレンマを抱えたヤマアラシなのです。しかし、これまでずっとたくさんの様々な「システム」が、この傷やジレンマを見ないように、見せないように活躍してきてくれていました。その巨大な「システム」への信頼が、いたるところでほころび始めているようです。私たちはみな、いつどこで大変な傷つきに遭遇してしまうか、不安と怖れにとらわれています。父親、上司、先生が伝えてきた「正義」や「規範」の根拠を皮肉たっぷりに根こぎにしていく欲求や衝動に溢れています。なぜ私たちは、裸のヤマアラシに過ぎないことをこれほどまでに痛切に自覚させられなければならないのでしょうか。

 しかしながら、この現状にこそ、現代社会の悲願、そして希望があるのではないか、そんなふうにも思えます。つまり、誰かが一方的に傷つき過ぎたり、誰かが一方的に傷つけ過ぎたりすることを正当化するような「システム」ではなく、また傷つけていることや傷ついていることを見ないように、見せないように、無感動や無気力、無関心や無理解、排除を積み重ねていくような姿勢や態度でもなく、傷つき、傷つける理不尽さに誰もが出会う可能性を自覚し、ともに向き合う「行儀」の姿勢。裸のヤマアラシであることを強烈に自覚させられる現代にこそ、私たち一人ひとりがこの姿勢を改めて見つめ直すための絶好の機会を与えられているとも言えるのではないでしょうか。しかし、それは同時に私たち自身の中にある、受け入れがたい「傷」と向き合わねばならない姿勢でもあります。つらく苦しい作業でもあります。

(終わり)

畠山正文

コメント

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