不安が強く迫るとき

不安について考えよう(5)

 妄想が想像力を狭め「みんなに嫌われている」というようなある特定の想像内容に固定化することで安定しようとする心の働きだとしたら、強迫という精神症状は、想像というふわふわした雲のようなものを具体的な形や行動として固定化することで安定しようとする心の働きだと言えます。

 例えば、筆箱の中の鉛筆がいつも全て完璧にとがっていないと気がすまない人がいたとします。時々、削るのを忘れたときに「ああ、忘れちゃったな。明日はちゃんと削って来よう」と思う程度であればそれは誰にでもよくあることです。しかし、削り忘れた鉛筆が1本でもあろうものなら、たちまちにものすごく強い不安がこみ上げてきて、その夜に何時間もかけて何ダースもの鉛筆を削り続けるというような行動に出るとしたら、それは強迫という精神症状が疑われることになります。

 こういうときにも、一般的には、妄想と同じように周囲の人たちは不安を遠ざけようと本人に働きかけます。「そんなに鉛筆を削らなくても大丈夫だよ」という具合に。しかし、たいてい本人はそんなことはわかっていることが多く、不安が心の中にあまりに強く迫ってくるために、わかっているけどその行動を止められません。「明日も明後日もその先もずっと自分はきちんと毎日鉛筆を削ることができるだろう」などという未来のふわふわとした想像が全く信じられないので、そのふわふわを具体的な形にするために、夜な夜な数十本もの鉛筆を削り続けるという苦行にいそしむことになるわけです。

 こうした行動は、とても異常に思われるかもしれませんが、わたしたち自身少し前に似たようなことを体験したり、目の当たりにしたりしたはずです。トイレットペーパーやマスクなどの、いわゆる強迫的な買い占め行動はこの心理とよく似ています(買い占め行動の場合、集団的な事象でみんなが同じように振舞うため異常とは見えないところが、また逆に怖いところでもあります)。あのとき、買い占めをしていた人の多くは「そんなに買わなくても大丈夫だよ」という誰かの忠告に耳を傾けることができたでしょうか。不安が心に強く迫る状態では、鉛筆を削り続ける行動や買い占め行動といった強迫的な行動自体によってある程度不安を和らげる効果があるため、その行動を周囲の忠告によってやめさせようとしてもあまりうまくはいきません。逆に、妄想の場合と同じく、やめさせようとすればするほど、逆に不安が強まり、さらに奇妙な形でその不安を埋めようとして、症状が深刻化していくことさえあります。

 このように、妄想も強迫も、不安を少しでも和らげたり抑えたりするための本人の必死な努力です。ですから、そうした考えや行動を忠告や助言によって修正しようとしても、残念ながらそれはなかなかうまくいきません。だとしたら、こうした考えや行動、さらには不安そのものに対して、わたしたちは何もなす術がないのでしょうか。

(次回に続く)

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