思春期という変化のときに、その不安定さを落ち着かせるための二つの方法、言語化と体験化には、どちらも良い面と悪い面があります。言語化は、あいまいさに境界や区別を作り明確にするため分かりやすくなったり(「あなたたちはもう大人」と言い切る)、またその言語化された中身には保護されたあいまいさが保たれたり(「思春期だから不安定なのはしかたない」と割り切る)という良い面が、逆に強引さがあるため反動がひどくなったり(「大人」と言われるほど逆に子どもっぽさが目立つ)、他人や自分をひどく傷つけたり(「中二病」と馬鹿にしたり自己卑下したりする)という悪い面があります。一方、体験化のほうは、試行錯誤を何度も繰り返すため変化が心と身体にしっかり定着するという良い面がありますが、人によってその体験はバラバラなので共有しづらかったり、変化を体験するのにかかる時間がまちまちだったりするという悪い面があります。
さて、このように言語化と体験化という二つの方法を整理したうえで、わたしたちは、ふつうどちらの方法を採用して安定化させることが多いでしょうか。もちろん、人によってその方法の採用の仕方はまちまちで、本来は「ふつう」などと言えるものはないのかもしれませんが、ある程度の傾向はあるでしょう。特に最近は言語化のほうに重きを置いて安定化させることが多い傾向にあるようです。
「中二病」という言葉は元々ラジオやインターネットの世界から登場した俗っぽい言語化ですが、ずいぶん前からわたしたちの日常には、専門家が使う高尚な(?)言葉としても言語化による安定化の例が溢れています。「〇〇障害」「〇〇症」といった新しい病名が書店やインターネットにこれでもかと溢れかえっています。「HSP(HSC)」もまたその代表例です。繰り返しになりますが、もちろんこの言語化によって「〇〇障害」なのだから不安定なのは仕方がないという具合に、変化に伴う不安定さを留保できるという良い面は間違いなくあります。しかしその一方で、こうした言語化が行き過ぎると、二つの大きな問題が生じることもまた、わたしたちはよく自覚しておく必要があります。
一つ目は、ある甚だしい変化の状態に、「〇〇障害」や「〇〇症」という言葉を与えられると、それは「思春期」のような、ある特定の時期やプロセスを表現する言葉ではないために、その言葉に固定化されてしまう可能性がある点です。本来「〇〇障害」や「〇〇症」といった病気は、風邪などと同じように保護や治療の必要な一時的な状態を示す言葉であるにもかかわらず、不変的な状態を示す言葉のように受け取られてしまうと、必要な変化を十分に体験することができないということが生じてしまいます。 二つ目は、こうした言葉が増えれば増えるほど、こうした言葉による固定化を恐れて、本来思春期の時期に体験すべき「ふつうからの間違い探し」のような変化に伴う不安定さを十分に体験することなく大人になる人が増えていくということです。これは、社会全体に深刻な影響を及ぼす大変切実な問題です。
畠山正文
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