ふつうの取り違え


 

 「思春期」「中二病」「HSP(HSC)」「〇〇症」「〇〇障害」といった、心の不安定さを意味する言葉が、これでもかと溢れています。この言葉に当てはまる(と思っている)人は、その言葉によって自分を固定化し、どんどんと自己嫌悪や劣等感ばかりを深め、十分に不安定から安定への変化を体験できない可能性が高まります。一方で、この言葉に当てはまらない(と思っている)人も、どこか他人事で自分には関係ないこととしてますます他者への無理解を深め、やはり不安定から安定への変化を体験できない可能性があります。今、わたしたちの社会で現に起こっていることは、こうした言語化による安定が、他者への理解やお互いの心の交流を深めるという本来の目的を忘れ、皮肉にも、わたしたち自身や他者に対する無理解ばかりを量産しています。ここに、「ふつう」が「不通」となるひとつの大きな要因があります。人は不安定から安定へという変化のプロセスを、真に体験しない限り、不安定であることの意味も、そして安定していることの意味も、どちらも本当には(心身を貫いて)わかっていることにはなりません。それは、以前ご紹介した比喩で言えば、河口付近で滞留した川岸の水溜まりを海だと勘違いすることに似ています。そのにせものの安定は、もろくはかない安定に過ぎません。大きな鉄砲水にさらされれば、とたんに崩れてしまうかりそめの安定です。

 HSPやHSCという言葉が世界的に流行していることの意味も、ここにあります。つまり、世界中の人々が言語化による小さなかりそめの安定にしがみつけばしがみつくほど、さらにその安定が実は不安定であることに気づけば気づくほど、過度な敏感さに苦しむ人が増えます。ほんの些細な出来事のなかに、変化の種が、不安定さの種がありありと見えてしまうからです。

 「ふつう」な状態であれば、本来心は安定しています。しかしその「ふつう」による安定は、不安定から安定への変化というプロセスを体験化によって真に体験し尽くした人同士で共有される何かです。それは、幅があり、あいまいさがあり、揺らぎがあり、不安定をも含み込んだ寛大な海のような何かです。それは、お寺での所作が時間をかけながら心と身体に刻み込まれていくときの、その何かです。

 ストップウォッチで10秒ぴったりに止める遊びで言えば、本当のところストップウォッチが刻む正確な時間が「ふつう」なのではありません。そうではなくそれを楽しく笑いながら誰かと遊ぶ、揺れとゆとりとを持った場と時間こそが「ふつう」という感覚を生み出します。

 以前ご紹介した「ふたつの時間」に関連付けて一般化して言うと、何か出来事が生じる「とき」を誰かとともに迎えるということこそが、わたしたちに「ふつう」という感覚を体験的にもたらすのであって、ストップウォッチが刻む時間そのものが「ふつう」なのではないということです。時計やカレンダーに表示される時間のような「ふつう」ばかりに振り回されるときに、あの男子高校生のような睡眠の問題やあの女子中学生のような「ふつうからの間違い探し」が深刻化するのでしょう。にもかかわらず、時計やカレンダーやストップウォッチの刻む時間のようなものこそが、「ふつう」だとわたしたちは思い込んでいます。わたしたちは「ふつう」を、すっかり取り違えてしまっているようです。

 思春期の子どもたちに限らず、最近では世代を超えて多くの人々がしばしば示す、加速して止まらない「ふつうからの間違い探し」は、この「ふつう」の取り違えから起こっているように思えてなりません。本当の「ふつう」をわたしたちのもとにどうやったら取り戻せるのか、これこそが切実な問題です。

畠山正文


コメント

タイトルとURLをコピーしました