前回少し触れた、「個人的な欲求」をうまくしつけるための根拠となるはずの「正義」「公共」「規範」が、ただの「社会側の欲求」や、場合によっては「個人的な欲求」に成り下がってしまう状況とは具体的にどのような状況でしょうか。まずはそこから整理しておきましょう。
ある小学生の男の子が宿題もせずにずっとゲームをしていました。母親の言いつけを無視してゲームを止める気配がありません。普段はほとんど怒らない男の子のお父さんは「これはとんでもないことだ!」と激怒して、日ごろは使っていない小部屋にカギを掛けて男の子を閉じ込めました。男の子は「ごめんなさ~い!」大声で泣き叫びます。お父さんはお母さんに「今日は絶対に許さないから夕食も食べさせなくていい!」と言いました。こんなこと一度もされたことのない男の子は、真っ暗な小部屋の中で大声で泣きわめき続けます。お母さんはその泣き声を聞いているうちにいたたまれない気持ちになってきて「これはちょっとやり過ぎよ!」とお父さんに訴えました。お父さんは聞く耳を持ちません。「お前がそうやって甘やかすからあいつはダメになるんだ!」お父さんはいつになく強気です。お母さんが小部屋のカギを開けようとします。お父さんは力ずくでそれを阻止しようとします。お母さんは普段は穏和なお父さんがおかしくなってしまったと思い、慌ててお父さんの実家に電話をかけます。「ちょっと大変なことになっているのですぐに来てください!」間もなくお父さんの両親や近所の友人まで集まってきて、みんなで閉じ込められていた男の子を小部屋から出したり、お父さんを諭したりし始めました。結局最終的に、「お父さんは仕事が忙しくてどうかしてしまった」という話に落ち着きました。お父さんはそれ以来すっかり気落ちしてしまい、お父さんらしい振る舞いがほとんどできなくなってしまいました。実はこのお父さんは、職場の同僚が子どもに厳しくしつけをしていて、うまくいっているという話を聞いたので自分も同じようにやってみようと思ったのでした。そしてそんなふうに思ったのは、日ごろからこの男の子の行動や態度がだらしないと感じていて何とかしなければと思っていたからでした。
このお父さんは、男の子の「いつまでもゲームを楽しんでいたい」という「個人的な欲求」をきちんとしつけるために、つまり、わがままはダメだということを理解させるために、男の子を小部屋に閉じ込めたのでした。それが「正義」であり「規範」であると信じて。ところが、最終的な結論は、このお父さんのとった行動は、お父さんの個人的なストレスのはけ口に過ぎなかった、お父さんのただのわがままだったということで終わっているのです。このような状況こそが、「正義」や「規範」がただの「欲求」に成り下がるという現象の一例です。
「虐待」「ハラスメント」「体罰」といった現代のメディアを賑わす言葉の背景には、実は親や上司、先生といった人たちが担っていた、かつての「正義」や「規範」といったものを、ただの「欲求」に、場合によってはただの「わがまま」に変えていこうとするねらいがあるのです。ではなぜそのようなことを私たちはねらっているのでしょうか。
(次回につづく)
畠山正文
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