A君やA君の周囲の人たちは当初、A君の頭痛を治して何とか学校に行けるようになることが重要な問題でした。この時、カウンセリングに期待されていたことは、「頭痛が治ったり、和らいだりすること」や「学校に通えるようになること」です。しかし前回見てきたようにA君の経過は決してその期待通りにはなっていません。頭痛もなかなか和らがないですし、学校からは足が遠のくばかりです。そう考えると、カウンセリングなどというものには全く意味がないように思えてきます。実際、そのような判断からカウンセリングを途中でやめる場合というのは、多くあります。
では、カウンセリングは何のためにあるのでしょう。実はカウンセリングというものは、そもそもこの当初の「意味」が無意味化することによって成立するようなところがあります。A君本人やA君の周囲の人たちにとって、「頭痛」は取り除くべき悪いもので、解放されなければならないと信じられています。しかしこの強すぎる信念こそが、皮肉にもA君を「頭痛」の苦しみへと縛り付けます。前回の離岸流の岸に向かって泳いでも泳いでもたどり着けないというイメージはまさにこの状況に似ています。「頭痛を早く治して、急いで学校に行かなきゃ。僕はサボってるわけでも、逃げてるわけでもなく、学校に行きたいんだ。行きたいんだ…」という真摯なA君の思いをまるであざ笑うかのように頭の激痛がA君を襲います。「頭痛は早く治さなければならない」という強すぎる「意味」こそが、A君をさらに頭痛へと誘っているわけです。ですから、カウンセリングではまずこの頭痛へと誘う「意味」が無意味化するように、雑談をしたり、楽しい話をしたり、ほっとできるような時間を過ごしたり、つい夢中になってしまうことについて語り合ったりします。周囲の人から見て、カウンセリングが無意味に感じるとき、「カウンセリングって意味あるの?」と聞きたくなってしまうときというのは、たいていこういう状況のときです。もちろん、これをただ漫然と目的もなく延々と続けているだけであれば、そのカウンセリングは実際本当に無意味な作業でしょう。離岸流にただ流されて漂流し続けるだけでは、なかなかカウンセリングにはなりません。ただし、こうした本当に無意味な時間や漂流を長い時間続けることが有意義な場合もしばしばあるのですが。とは言え、カウンセリングの本当の目的はこの後の展開に照準を合わせています。
カウンセリングの本当の目的、それは新たな「意味」の発生と発見です。離岸流のたとえでいえば「島」であり、A君の例でいえば「フットサル」です。その人にとっての、その人にとってだけの、かけがえのない人生の意味が新たに立ち上がってくる瞬間です。そしてこの瞬間は、A君を苦しめていた「頭痛は早く治さなければならない」という「意味」が「無意味」にならない限り、残念ながら訪れてこない瞬間でもあります。離岸流にさらわれる前の岸辺に戻らねばならないという「意味」が「無意味」にならない限り、決して発見されることはない島です。そして、この瞬間のために、私たちカウンセラーは命懸けでこの「無意味」にとどまろうと腐心するのです。これは狙って生まれるものでも、狙って見つかるものでもありません。ただただ「無意味」に思える時間をたゆたうことを通して生まれ、見つかるものです。
夢中になって虫を追い掛け回す、無心にバットの素振りを続ける、没頭して好きな小説を読み耽る、親友と時間を忘れて朝まで語り合う…。こんな時間が私たちにはずいぶん少なくなってきているように思います。例えば、学校の成績、受験、就職、昇給や昇進、業績、売上といった社会的な物差しから見ると、そうした時間には全く「意味」を感じられないからです。こういった社会的な物差しに対してばかり真面目で誠実になり過ぎると、バカンスでやってきた海水浴でA君のようにうっかりと離岸流に巻き込まれることが多くあるように見受けられます。一見「無意味」と思える取り組みに本当に没頭できたとき、自分だけのかけがえのない「意味」が穏やかな心持ちとともに私たちを迎え入れてくれる、このような体験こそが真の成長だということはおそらく今も昔も全く変わらない、生身の身体を持った人間の本質のように思います。そしてこの体験こそが、カウンセリングの本当の「意味」にほかなりません。
畠山正文
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