ある「悩み」が「別の悩み」へと“自ず”と変化していく、ということを大切にするのがカウンセリングだというところまでが前回のお話でした。この変化は実際にはどのようなものなのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
唐突ですが、「離岸流」というものをご存知でしょうか。海水浴をしているとこの離岸流に出遭うことがあります。波打ち際から沖に向かっての強い引き潮の流れのことです。離岸流に巻き込まれると、あっという間に岸辺からはるか沖の方まで流されてしまいます。どんなに泳ぎが得意な人でも離岸流に逆らって海岸にたどり着くことはできません。カウンセラーがA君の「頭が痛い」という悩みとは「別の悩み」について考えている時というのは、この離岸流のようなものについて考えているのに似ています。つまり、本人や周囲は安全な岸に向かって必死に泳ぎ着こうとしているのに(頭痛を治そうとしているのに)、どんなにもがいてもあがいても一向に岸にたどり着くことができない(頭痛から解放されない)という状態へとA君をどんどんと連れ去ろうとする、この流れについてカウンセラーは懸命に考えようとするのです。この時、カウンセラーはA君の傍らでともに離岸流を体験しつつ考えます。実際、カウンセラーもまたA君と同じような頭痛に襲われることさえあります。A君とともに体験しつつ考え合う、これはカウンセリングというものの大きな特徴です。
ひと口に離岸流と言っても、河口から海に流れ込む水量や地形、水深、風向き、風速、潮の動きなどなど様々な条件によって、離岸流の速度や大きさなどが変わってきます。A君の頭痛も同様に、いつ、どのくらいの頻度で、どのくらいの強さで、どんなふうに…と丁寧に慎重に状況を聴いたり、カウンセラー自身が体験している頭痛を丁寧に感じ取ったりしなければ、いったいどんな離岸流にA君が巻き込まれているのかわかりません。カウンセラーはこの時まさに命懸けで真剣に耳と心を傾け、感じ取ります。
また、一般に離岸流は岸に対して水平方向に泳げば抜けられる、とされています。もちろんそういう「やり方」を紹介することもあります。頭痛を緩和する様々な「やり方」もいろいろあります。しかし、それ自体体力や気力を消耗し、最悪の場合そのまま溺れてしまうこともあるので、やはり注意深く紹介します。心の中の離岸流は、時として想像を超えるような強さと速さで、私たちを連れ去ってしまうことがあります。水平方向に泳いでも、どんどんと沖へ連れ去られることもあるのです。A君の場合、頭痛を和らげるようなリラクゼーションや不安を軽減する練習などいろいろ試しますが、頭痛は落ち着く気配がありません。なす術なくA君とカウンセラーは激しい離岸流にのってともに沖合いまで流されて行くことになりますが、ここでA君はふと大切なことに気づきます。「あれ、元の岸に戻るより、あっちの島の方が近い」と。頭痛へのこだわりが、別のことへの関心に移り変わっていく瞬間です。A君の場合のこの島は、サッカーでした。頭痛で学校を休んでいたためずっと練習に行けていなかったサッカークラブにふと足を運んでみたのです。久しぶりのサッカーで体力的にはとてもきつかったのですが、無心でサッカーボールを追いかけている時には、頭痛から解放されている自分に気づきます。
このように、本人や周囲の人たちの意思に反して強くて速い離岸流に巻き込まれていると、はるか沖合いの島の近くまでたどり着くことがあります。こうなってくると、もはや元の岸に戻ろうとすることはあまり問題ではなくなり、つまり頭痛を治してすぐにでも学校に通おうとすることは問題ではなくなり、新たに発見した島にどのように上陸するかをともに考えて行くことになります。A君の場合、しかしサッカーという島に上陸するのにも紆余曲折がありました。元々通っていたサッカークラブでは、やがて行く前に頭痛や腹痛が出てきてしまい通えなくなってしまったのです。結局A君は主に大人が参加するフットサルクラブに居場所を見つけ、毎日懸命に通うようになりました。新たに発見した島が、安全なところとばかりは限りません。新たな離岸流や渦潮に巻き込まれたり、どう猛な獣が棲んでいたり、よそ者を決して受け入れない原住民が住んでいたりすることもあります。どこからどんなふうに上陸するのがいいのか、A君とカウンセラーは真剣に話し合いながら、一つひとつ確かめながら決めていきます。
その後やってくるテーマとしては、その島にこのまま住み続けるのがいいのか、例えばいかだを作ってでも元々住んでいた海岸に戻るのがいいのか、といったことです。このテーマについてもA君とカウンセラーはともに真剣に考え合います。A君はフットサルに打ち込むことを選び、通信の高校に通いながら、真剣にフットサルを続けました。そして、高校を卒業して1年後、A君の活躍が目に止まり、東京の強豪チームに誘われ、全日本選手権などの大きな大会で活躍する選手へとA君は生まれ変わっていきました。
このような変化は、カウンセラーが引き起こしたのでしょうか、あるいはA君が引き起こしたのでしょうか、どちらもそうだと言えばそうですが、そうでないと言えばそうでないと言えます。このようないったい誰が、あるいは何が引き起こしたのかよくわからない変化こそ、ある「悩み」が「別の悩み」へと“自ず”と変化していくということを示しています。
畠山正文
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