体験化とは


 一般の人にも朝のお勤めへの参加を開放しているあるお寺では、住職自ら一般の人たちに礼拝の所作を教えます。この教え方が実に独特です。住職は一言「よく見ていてください」とだけ言って、住職自ら所作をやって見せます。一通り終わったら、「では、やってみてください」と一般参加者に促します。参加者も見様見真似でやってみます。複雑な動きなので初めは全然できません。参加者の所作が終わると再び住職は「よく見ていてください」と言って同じ所作を自ら繰り返します。そしてまた「やってみてください」と言い、参加者は再び見様見真似で取り組みます。まだまだ形になりません。さらにまた住職の「よく見ていてください」の一言に続いての所作の繰り返し。この取り組みが何度も繰り返されます。中には、住職がやっている最中に同じことをやろうとする参加者もいますが、そこには住職はしっかりと反応します。「今はやらないでください。よく見ていてください」と。そして何度も何度も試行錯誤を繰り返した後、参加者の所作の完成を見ると、住職は次の礼拝に移ります。参加者によっては、一つの所作を習得するのに、40~50分かかることもあります。もちろんそれほどの時間がかかれば、朝のお勤めの時間も遅れてしまいます。それでも住職は全く表情も態度も変えず、その参加者がその所作を習得するまで、ただひたすら同じ所作を繰り返します。

 この住職の教え方は、言語化とは全く異なる体験化の例です。やり方を一切言葉では教えません。ただひたすら目で見て繰り返させます。身体の中に動きを刻み付けていくかのように同じ動作を繰り返すのです。わたしたちの身近では、漢字や計算の繰り返しや、スポーツの基礎的な練習にもまた、同じ体験化が行われています。ただひたすらに試行錯誤を繰り返し、心と身体にある動きのパターンを刻み込むのです。

 先ほどの住職の教える様子を目の当たりにして一番驚くのは、未体験の段階から習得の段階までの変化のプロセスにかかる時間の多寡に、その住職は全くこだわっていないという点です。所作の習得まで早い人は3回目くらいでできてしまう人もいますが、人によっては100回以上繰り返す人もいます。そうした習得にかかる試行錯誤の回数や時間のことなど、全く気にかけず、ひたすらにその人の体験が完了するまで穏やかに繰り返します。

 このように、未体験の段階から習得の段階までの変化を、試行錯誤しながら繰り返し何度も体験することで心の安定化を図ること、これが体験化です。この体験化にも良い面と悪い面があります。良い面はある変化が心と体にしっかりと定着すること、一方の悪い面は場合によってはとても長い時間がかかってしまうことです。

 

畠山正文


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