「にもかかわらず」と「だからこそ」とをつなぐこと


蓮の香や 水をはなるる 茎二寸

与謝蕪村

 「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉をご存じでしょうか。この言葉は、二つの方向で解釈されます。一つは、蓮の花は、泥のように汚い中で育つのにもかかわらず・・・・・・・、あのように美しい花を咲かせるという解釈、もう一つは、蓮の花は、泥のように汚い中で育ったからこそ・・・・、あのように美しい花を咲かせるという解釈、の二つです。この二つの解釈は、有名になった人や偉人たちの伝記の評価にも、よく表われる解釈の違いです。あのような過酷な境遇に生まれ育ったにもかかわらず・・・・・・・、あのような素晴らしい人になったという解釈と、あれほど過酷な経験を生き抜いてきたからこそ・・・・、あのような素晴らしい人になったという解釈の違いです。

 多くの芸術家と同じく、俳人もまた過酷で不遇な人生の体験が原動力となり、素晴らしい作品が生み出されてくることが多いのですが、特に今回取り上げた句を詠んだ与謝蕪村という人物は、なかでも不思議な不遇さをもった人生を歩んだ人です。蕪村の人生は、とにかく謎に満ちています。蕪村が俳諧として、あるいは画家として実際に活動していた江戸時代には、蕪村は全くと言ってよいほど無名の人でした。弟子も何人かいましたが、蕪村の人生を語り継ぐ者がほとんどいなかったのです。ですから、蕪村がどのように生まれ育ったのか、ほとんどわかっていません。蕪村がこれほど俳人として有名になったのは、明治期の正岡子規による再評価がきっかけでした。ある意味、蕪村の作品たちは、百数十年もの間、泥水の中にもぐり込み続けてきた蓮の花のようです。

蓮の香や 水をはなるる 茎二寸

 蕪村の句は、百十数年ものながいながい間、泥水の中にもぐり続けてきたにもかかわらず・・・・・・・、わたしたちの心に深い感銘を与えるのでしょうか。それとも、泥水の中にもぐり続けてきたからこそ・・・・、感動を与えるのでしょうか。どちらなのでしょう。

 カウンセリングを訪れる方の多くが、苦しく過酷な状況を生きていらっしゃいます。そうした苦しみや過酷さがあるにもかかわらず・・・・・・・、その泥水から離れ少し経ったときに、人生の芳醇な香りを堪能される方もまた多くいらっしゃいます。そして、そうした苦しみや過酷さがあるからこそ・・・・、人生の妙味を深く味わわれる方もまた多くいらっしゃいます。この「にもかかわらず」と「だからこそ」の間を丁寧に丁寧につなぎ合わせていくこと、このことこそが、わたしたちカウンセラーの仕事です。

畠山正文

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