まどろみに宿る生命

短夜や 夢も現も 同じこと

高浜虚子

 もう窮屈になってしまった卵の中から雛鳥が外へ生まれ出ようと卵の内側から壁をつつきます。外側からは親鳥が卵の殻をつつき雛鳥の孵化を助けます。啐啄同時。啐と啄は同時に起こらねばなりません。しかし、この啐と啄の同時性を実践するのは言葉で表現するほど、簡単なことではありません。

 親鳥は卵の中の生まれ出ようとする雛鳥の声なき声を感じ取らなければなりませんし、雛鳥もまた自分の中の生まれ出ようとするエネルギーのようなものの声なき声を感じ取り行動に移さなければなりません。早すぎても、遅すぎても、うまく孵ることはできません。

 人間にとってこの啐啄同時はものすごく難しいことのように感じますが、毎年自然はこの同時を繰り返し続けています。初夏から夏にかけ、わたしたちのすぐ身近にいるツバメもスズメもヒヨドリも、誰に教えられることもなくこの啐啄同時を当たり前のように実践しています。

短夜や 夢も現も 同じこと

高浜虚子

 第三高等学校(現京都大学)の同級生でもあり、正岡子規の高弟でもあった高浜虚子と河東碧梧桐。子規はこの二人の愛弟子をこう評しています。「虚子は熱き事火の如く、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し、碧梧桐の人間を見るは猶無心の草木を見るが如く、虚子の草木を見るは猶有情の人間を見るが如し。」のちに「客観写生」を理念とし自然現象の客観描写の奥に潜在する主観や感情を大切にしようとした高浜虚子の内奥に溢れる熱量を見抜き、のちに定型や季題から離れ自由律俳句の誕生に寄与した河東碧梧桐の内奥に透徹した冷静さを看破していた師。この言葉は、二人の雛鳥たちがまさに生まれ出ようとするときの正岡子規なりの「啄」であったのかもしれません。


 いま、わたしたちの社会は、ひきこもりや不登校といった、なかなか卵から孵ることのできない雛鳥たちの問題を抱えています。関係者だけでなく当事者までもが卵に外側から光を当て、ああでもない、こうでもないと他人事のように原因探しや対策方法を論じます。しかし、卵の中の蠢きを本当に看取するには、客観と主観、夢と現とが同じ力と同じ権利で交じり合う、夏の短夜のまどろみのような時間こそが大切です。自然が当たり前のように繰り返している夏の短夜のまどろみこそが、生命力を養います。

畠山正文

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