予定と偶然の狭間で


鏡餅 暗きところに 割れて坐す

西東三鬼

 年神様がいらっしゃる、いわゆる松の内を過ぎると、鏡開きが行われます。固くひび割れた鏡餅を木づちで打って開き、年神様がお宿りしたあとの霊力を頂戴する、こうした風習を大切にしているご家庭や地域は、いまだに少なからずあることでしょう。一方で、最近は鏡餅もすっかり真空パックやプラスチック製のものが主流となっていて、果たして年神様がお宿りできるのだろうか、と心配になるのはわたしだけでしょうか。

 鏡餅のひび割れが多ければ多いほど、その年は豊作に恵まれる、こうした事象と事象の結びつきの中に、年神様というリアリティが現れてきます。もちろんこのリアリティは、農耕が人々の暮らしの中心であったからこそ必然的に生じてきたリアリティです。農耕が生活の中心ではなくなった現代のわたしたちにとって、年神様というリアリティは古き良きフィクションのように映るのは、ですからごく自然なことです。そうだとすれば、鏡餅は古き良き日本のフィクションを象徴する、一つのスタイルでありさえすればよいのですから、真空パックやプラスチック製でも何の問題もありません。

 ところで、作物の豊穣と年神様との結びつきを支えているのは、いったい何でしょう?なぜ、昔の人たちは作物の収穫に年神様が影響していると考えたのでしょう?それは、収穫に大きく影響する気候や自然災害、病害虫などの振る舞いが当時の人々の知力を超え、非常にランダムな振る舞いをしていたからです。こうしたランダムな振る舞い、つまり予定や計画のできない偶然性に強く左右された状態にさらされているときに、年神様という存在が心のよすがとなって人々の暮らしを強く深く支えていました。人間には偶然にしか見えないハプニングに溢れた生活が、年神様という人智を超えた存在を必要としたのです。鏡餅のひび割れと作物の収穫との間に、人智を超えた偶然性という共通項があるために、年神様を媒介にして二つの事象が結び付けられます。

 さて、このように考えていくと、しかしながら、「予定や計画のできない偶然性に強く左右された状態」に置かれているのは、農耕が生活の中心だった昔の人々だけではありません。現代を暮らすわたしたちもまた、こうした状態に置かれています。近年の自然災害や感染症の問題をはじめ、日常の些細な人間関係の中にも「予定や計画のできない偶然性に強く左右された状態」がたくさん溢れています。一方で、真空パックの鏡餅で迎えられる年神様というリアリティは昔の人々のそれとは全く異なるものになってしまいました。現代の人々の心のよすがは、一体何に託されているのでしょう。

鏡餅 暗きところに 割れて坐す

西東三鬼

 西東三鬼は、昭和初期に起こった新しい俳句制作の運動、新興俳句の俳人として有名です。俳句という古き良き日本の伝統の形式を保持しながらも、懸命にモダンを詠もうと腐心した俳人の代表です。モダンが進む都市生活の片隅で暗きところにひっそりと置かれた鏡餅とそのひび割れの存在感を大切にする三鬼の眼差しは、どのような心のよすがを抱いていたのでしょうか。

 三鬼の時代から80年余りの歳月を重ねたわたしたちにとって、この心のよすがの問題はさらに切実なものになってきています。

畠山正文

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