尻子玉を抜かれぬように


五月雨や 大河を前に 家二軒

与謝蕪村

 五月雨が降りしきるなか、大河と向かい合う二軒の家が建っています。大河は雨で増水しているかもしれません。現代の治水技術や建築技術をもってさえ、大雨が降れば土砂崩れやがけ崩れで家が傾いてしまうことがあるくらいですから、与謝蕪村がこの句を詠んだ江戸時代中期のこの光景はどれほど危険と隣り合わせの状態だったろうかと想像します。おそらくは、蕪村の視点は家二軒が建っている地から大河を隔てた対岸にあるだろうと思われます。しかしそれにしても、不思議とこの句からはこの二軒の家に迫る危機の切迫感よりも、風景としての穏やかさや静けさが伝わってきます。厳しい自然を前にした時の、人間の生活や人間の技術がいかに脆くか弱いものであるかを諦観し、まるで危機さえも一つの風景として包摂しているかのような穏やかさ、静けさが感じられます。

五月雨や 大河を前に 家二軒

 250年近く前のこの蕪村が眺めた風景と、現代のわたしたちが様々なメディアを通して見ている、多くの災害や事件、最近では感染症をめぐる風景とを比べた時、不思議なつながりと違いが感じられます。これだけ科学技術の発展によって避けられる危険やリスクが蕪村の頃よりもずっと多くなっているにも関わらず、厳しい自然を前にした時の、人間の生活や人間の技術がいかに脆くか弱いものであるか、このことはなぜか250年近くの時を超えた今もあまり変わっていないように思います。その一方で、こうした脅威をテレビやスマートフォンの画面の此岸から眺めるわたしたちの視点、心の構えはと言うと、蕪村のそれとはずいぶん異なっているように思います。わたしたちの視点や構えは、はるかに混乱や当惑に満ち満ちていて、危機の彼岸と此岸を絶えず分断し続けるような狭量さがわたしたちの心を支配しているように思われます。


 ところで、「河童」という妖怪がいます。河童がどのようにして生まれてきたのかという起源譚には、いくつかのバリエーションがありますが、そのうちの一つに、次のようなものがあります。

「飛騨の匠・竹田の番匠が内裏造営のときに人形を作って働かせ、その人形が官女と交わり、子を生み、河原に捨てたところ、河童になった。」

 この起源譚では、河童は内裏造営つまり建築という営みの際に活躍した人形(ひとがた)の子どもが河に捨てられたものだと言い伝えられています。そして、人間の身勝手な都合で捨てられた河童の恨みが、自然の猛威として人間の生活を脅かすようになったため、河童の魂を鎮めるための様々な儀礼が各地で行われていました。こうした河童の起源譚は、青森県から鹿児島県まで実に幅広い地域で様々なバリエーションをもって伝説や説話として語り継がれていたそうです。

 ここで大切なことは、かつて人々は、人間の建築という営みによって傷ついた自然を、河童という妖怪としてイメージすることでその恐ろしさをコミュニティの中で共有し、そのことを通じて自然への礼節や向き合い方、心構えを子々孫々に伝承していたという点です。

 現代にあっては、河童を本気で恐れるような子どもも大人も、すっかりいなくなってしまいました。河童は、すっかり可愛らしくデフォルメされたキャラクター(まさに尻子玉を抜かれた人形!)にすぎない存在になっています。河童に対する礼節をもつ人など皆無と言ってよいでしょう。治水技術や建築技術、法制度、医療技術などが高じるごとに、災害や事件や感染症などを前にした時のわたしたちの心構えが、蕪村のあの視点に比べはるかに貧弱になってしまった背景には、こうした本気で恐れ、礼節を傾ける河童がいなくなってしまったこととも関係しているのかもしれません。もちろん、いまさら河童を本気で恐れることなどできるはずもありませんが、それでも自然に対する礼節をわたしたちの心にどのように取り戻すかについては、わたしたちはきちんと考え続ける必要があるように思います。

畠山正文

参考文献

神野善治 「建築儀礼と人形ー河童起源譚と大工の女人犠牲譚をめぐってー」 小松和彦編『怪異の民俗学③ 河童』 河出書房新社 p75-108

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