英俊と悪人の狭間で


風かほる 羽織は襟も つくろはず

松尾芭蕉

 不登校や引きこもりの増加は一般的には問題視されることが圧倒的に多いですが、その一方で、徹底的に俗世間から引きこもることによって素晴らしい芸術や学問を次々と生み出す人たちがいることもまた、古今東西の常のようです。江戸時代の初頭に活躍した芸術家石川丈山も、そのひとり。またしばらくのちに、その丈山を敬う松尾芭蕉も、そのひとり。

 元々高貴な武家の出身で徳川家康から大変な寵愛を受けていた丈山は、大阪夏の陣でじつに苦しい葛藤を繰り返した末、家康からの先陣争いを戒める軍令に敢えて背いて敵陣に一番乗りをし相手方の大将を討ち取ります。大きな武功を立てたものの軍令に背いた責任をとり、丈山は罪人として蟄居の身に自らを投じます。丈山33歳のときのことです。その後丈山は、刀を捨て、ひたむきに隠遁生活を続けながら、芸術や学問に精進しました。そして、丈山が60歳の頃に、松尾芭蕉も胸打たれた京都は詩仙堂の、あの美しい風景を作り上げたのです。

 丈山の命の残り香が風に乗って京都から江戸までおそらくはまだ十分に薫っていたであろうころ、松尾芭蕉もまた、仕事や俳匠を全てうち捨て、江戸深川に「芭蕉庵」という居を構え、質素でつましい隠遁生活を始めます。芭蕉の「侘び」の世界は、この庵から少しずつ醸成されていきました。丈山と同じように隠遁生活を過ごしていた芭蕉ですが、丈山とは対照的に隠遁生活を追われる出来事が起こります。八百屋お七で有名な天和の大火で、芭蕉庵が焼けてしまったのです。そして、芭蕉の魂は芭蕉を隠遁ではなく、死に際まで続くことになるあの旅へと駆り立てることになります。その旅も佳境に入ったころに芭蕉が訪れたのが、元禄4年(1691年)6月、風薫る五月(旧暦)の詩仙堂でした。

風かほる 羽織は襟も つくろはず

 五月の清々しい風は、俗世間のつくろいごとなど、文字通りどこ吹く風と、詩仙堂や芭蕉庵を吹き抜けていたことでしょう。世捨て人としての悪人たちは、この風を通して、英俊へと生まれ変わっていったのかもしれません。


 不登校や引きこもりで苦しんでいらっしゃる方々とお会いすると、多くの方が学校や社会に出て行けない悪人としての自分に深い罪悪感を抱き、また悪人として生きることに絶望しておられます。この罪悪感や絶望は、隠遁生活に入るころの丈山や芭蕉のそれと、よく似ているのだろうと思います。丈山や芭蕉が俗世間から離れ、隠遁生活を送るきっかけや理由について、歴史はいろいろと語りますが、そのときの当人たちの思いは、おそらく現代の不登校や引きこもりの方々とほとんど変わらないほど、つらく、苦しいものであったに違いありません。丈山や芭蕉のように、後から振り返れば「英俊」のように思える行為も、そのときの本人や周囲の目からは「悪人」や「愚行」としか映らないこともあるでしょう。だからこそ、わたしたちは、「英俊」と「悪人」の狭間であちらへ行ったりこちらへ行ったり、大きく揺れることができるように、風通しをよくしておくことが大切だ、と思います。何百年ものときをこえ感動を与え続ける芸術や学問を育てた、あの詩仙堂や芭蕉庵のように。

畠山正文

参考文献

中薗英助 『艶隠者 小説 石川丈山』 新潮社

田中善信 『芭蕉 二つの顔』 講談社選書メチエ

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